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2008年6月

2008年6月28日 (土)

「強さ」とは・・・

梅雨の影響だと思うが、このところ肌寒かったり蒸し暑かったりが続いていたが、今日はカラッとはいかないまでも、晴れ間のあるさわやかな天気だ。しかし、その不安定な天気と同じように、今週は自分自身が不安定だった。

というより、自分自身の「心模様」が「空模様」にかなり左右された。出勤しても全く仕事が手につかない。机に座っているだけでしんどくて仕方なかった。会議室で突っ伏していた日もある。

10年以上前、自分自身の未熟さが原因で会社の中で「孤独」を深め、また、自分のなすべきことも分からず毎日を過ごすうちに、心身に不調をきたすようになってから、いまだにこの状況から脱却しきれないでいる。それというのも、昔から自分自身の言動を、離れたところにいる「自分」が冷静に見つめてしまう癖のある私は、こうした状況を「楽しんで」しまうようなところがあり、「孤独ごっこ」「苦悩ごっこ」を演じているからだと思う。はじめの不調からずっとかかっているカウンセラーには多分、そういったことはとっくにお見通しなのだと思うが、こんなことを言っている私自身が、こうした「せりふ」一つ一つが、自分自身の「本心」から出ているものか、ただ単に「カッコをつけて」いるだけなのか、いまだによく分からないのだ。

しかし、そうは言いながらも、やはり「孤独」であると感じざるを得なかった。机から離れて姿が見えない私を、職場にいる誰も気にも留めてくれなかったからだ。当たり前である。みんな忙しいのだ。こうやって冷静に考えれば、非常に「おこちゃま」だと思うが、その時は自分自身の居場所の無さを痛感し、泣きたくなってきた。

私が「コメットさん☆」というアニメがきっかけで、注目(?)しているアーティストがいる。ドラマやアニメのBGMの作曲を主なフィールドとして活動している、その「コメットさん☆」でもBGMを担当した「MOKA☆」というユニットだ。「コメットさん☆」は、登場人物たちの心情が独特の演出で印象的に表現されていることで、「一部の」アニメファンの中では熱狂的に支持された。その登場人物に寄り添った、時に明快で、時にリリカルなBGMは名曲ぞろいで、単独でも鑑賞に堪え、一時期はいろいろな番組でも使用されたほどだ。

「MOKA☆」は、BGM以外にも、これまでオリジナルのアルバムを2枚出している。BGMとは打って変わって、悲痛な、それでいて深遠な「心の叫び」が感じられる楽曲がそこここに散りばめられていて、聴く者の心を容赦なくえぐる感じがする。しかし、やはりどこか「温かい」。

「MOKA☆」は、2枚目のアルバム発売までの限定ということでブログを始めたが、結果的に今でも更新が続いている。私はずっとそれを読ませていただいているのだが、非常にピュアで感受性の強い方であることがよく分かる。それだけに、ご自分の心情をつぶさに書き過ぎてしまうことがあり、落ち込んでしまったりした時は、読んでいるこちらが、非常に心配になってしまう。本当に「か弱い」方である。

しかし、しばらく更新が止まった後に、書き始める言葉には、計り知れない「強さ」がある。「孤独」が本当はどんなものなのかを噛み締め、それを乗り越えて自分はどう生きていきたいのか、私には分からない(分かるはずのない)強い意志を感じる。多分、自分の「弱さ」だけでなく、他人の「弱さ」に思いをはせ、ともに寄り添っていこうとする、「弱さ」に真摯に向き合う「勇気」があるからだと思う。だから、「MOKA☆」の紡ぎ出す楽曲には、「鋭利な刃物」と「暖かな陽だまり」が同居する。

この「勇気」は、まねをしようにもなかなかできるものではない。「MOKA☆」自身の言葉を借りれば、「ギフト」である。だから、「MOKA☆」さん、もっと自信を持って下さい。

・・・途中で何を書いているか分からなくなってきた。でも、私もこのブログを通して、自分を見つめなおすきっかけとしていこうと思う。

2008年6月22日 (日)

う~ん・・・

パソコンを立ち上げるのに30分かかった。多分、「ノートン先生」のせいである。まず、立ち上がるときにメモリに常駐するのを失敗してハングアップする。立ち上げ直してつなぐと、ライブアップデートが帯域を独占するようで、IEがハングアップする・・・の繰り返し。つなぐのに成功したら、どこか軽いページに誘導した方が良いようである。繋がったら、今度は、結構「侵入の試み」があって、頻繁に警告メッセージが出る。ワームやボット類が蔓延しているようだ。買い替え時だとは思うが、他に買いたいものがあったりして、あまり興味や緊急性を感じないのも、どうしてなのか自分でも分からなかったりする。どうすべきか・・・。(今日はこれだけ)

2008年6月21日 (土)

横浜にて・・・

今日は全国的に雨だそうである。「だそうである」というのは、私の住む街は今朝の天気予報が見事に外れて、午前中は布団が干せるほどの青空で、これを書いている今も、かなり曇っては来たが、まだ降り出していないからである。

16日に、14日に秋葉原に行ったことを書いたが、先週末に東京方面に行くことになったのはそれだけが目的ではなかった。私には、2001年に放映されたアニメ「コメットさん☆」をきっかけに友人(もちろん男)になった方がいるのだが、その方と横浜に行く予定があったのだ。

考えてみれば、男二人(そう言えば私自身が「男」であることもあまり言ってなかった)で横浜の山下公園あたりに出かけるの図は、結構、・・・である。が、それもよりによって、「横浜人形の家」へ行った。そこで開催されている「リカちゃん&ジェニー 永遠の夢の世界展」が目当てである。

私はタカラトミー(旧タカラ)のファッションドールである「ジェニー」の10年来のファンで、その友人をある時、福島県にある「リカちゃんキャッスル」へ連れて行ったところ、彼も「リカちゃん」のファンになってしまい、今回この催しがあることを知って、一緒に行くことになった。

私自身はもう5年くらいファンとしての行動を最小限にしている。しかし、まだファンクラブの会員であるし(そのファンクラブも今年いっぱいで休止)、もちろんたまには「お迎え」もするのだが、そのペースは10年くらい前の比ではない。後でも少し述べるが、今、まっすぐな気持ちで「娘さん」たちに向き合うことができないでいるからだ。

展示は、世界中の土着の人形の展示、呪術的な人形から玩具としての人形に至るまでの歴史などから始まっていた。そして、やはり私たちを「狂喜乱舞」させたのは、日本の人形の歴史、そして「リカちゃん」と「ジェニー」の歴代の展示だった。

さすがに5年も経つと、その後登場したフレンドドールが分からないのはもちろんのこと、あの当時必死(?)になって覚えた多くのフレンドドールのことも、ふだんの生活ではかなり忘れてしまっている。しかし、不思議なもので、ずらり並んだ娘さんたちを見ていると、だんだん思い出してくるのだ。結果、一緒に来ている友人そっちのけではしゃいでしまい、かなり申し訳ないことをしたと反省している。

その後は、友人の案内で、裏通りや路地を入ったところにある、歴史的な建造物巡りをした。みんな博物館になっており、クーポンのおかげで割安に見学することができた。非常に興味深いものばかりで、有意義な一日だった。

そして東京に戻って、居酒屋でいろいろな話をした。こういうときは、私の方が一方的にしゃべってしまうという悪い癖がある。何度も同じ話をしたり、つじつまの合わない話をしたり。その中でやはり話題に上ったのは、お人形の話だ。以下、長くなるが、どうして人形が好きになって、今は疎遠になっているのかを書くことにする。

私が「ジェニー」を知ったのは今から11年前。当時、職場に居場所がなく、鬱々とした日々を送っていた私は、職場のパソコンから、その頃普及し始めた「インターネット」にしきりにアクセスしていた。アニメ関係のサイトを巡り、掲示板に書き込んでは、レスがあると喜んで、また書き込むという生活を送っていた。今では考えられない話だが、当時はまだそれほどうるさく言われなかった時代である。よく書き込みをしていたサイトの管理人が、ある時「ジェニー」にハマって、そのまま影響を受けてしまったのである。

これがきっかけになって、職場や学生時代の友人以外に「友達」というものができた。ドールイベントで落ち合ったり、「オフ会」というものに参加したり、そういう今まで体験のしたことのないことがとても楽しかった。そのうち長電話をしたりするようにもなった。自然、それに伴って、娘さんたちはどんどん増えていって、いつの間にか手に余るようになってきた(と思う)。

それをその頃、良くして下さっていた方に指摘され、ちょっとしたことから亀裂が入ってしまった。また、今では非常に反省しなければならないことだが、メールを頻繁にしていた女性(途中で既婚と知った)に「好意」を抱いてしまい、「ストーカー」まがいのことをして、音信不通にしてしまった。そのほか、色々とあって、この時の「友達」と疎遠になってしまった。すべては私の方に原因があるのだが、当時は分からなかった。

また、娘さんたちにも、色々と投影しすぎてしまった。私は恥ずかしい話だが、昔から「変身願望」が強い。「魔女っ子」や「変身ヒロイン」もののアニメを、親の目を盗んではどきどきしながら観たりしているうち、かなり思い入れのあるものになりすぎていたのかもしれない。それだけに、服装の着せ替え、しいては「職業」だけでなく、同じ名前のドールであっても、商品によっては髪型や挙句には目の色、時には年齢まで「変身」して現れる彼女たちが、私にとっては、うらやましい以上のものに映った。「変身」に「性的」な欲求を感じていたのも事実で、彼女たちにもそれを求めて投影してしまった。

あの当時、いろいろと良くして下さった別の女性が、「人形は所詮、『工業製品』なんだからね」と忠告してくれたが、今になってその意味が少し分かるようになってきた。投影するものが大きければ大きいほど、その「夢」が覚めたとしても、その時の「思い」が簡単に消えるものではなく、「残滓」としてとてつもなく大きなものとなってしまい、直視ができなくなってしまう。もちろん、物理的な問題もあるのだが、ここまで娘さんたちと向き合えないでいるのは、そのせいもあるかもしれない。もちろん、「言い訳」にしかならないのであるが。

ただ、「人形」が「人形」であることの本質は「思いを投影する」ことにあることも事実で、そうでなければ、わざわざ「人の形」(別に動物の形でも良い)に作ることはない。神話によれば、「人間」だって、神が自分の姿に似せて創った「入れ物」に過ぎないわけで。そして、そのいろいろな「思い」が親から子へ、子から孫へと伝えられていって、今日の「リカちゃん」や「ジェニー」につながっている。また、私たちも、人形を可愛がる子供たちを見ると、その「思い」の一端に触れることができて、やさしくなれるのだと思う。

いつもどおりの「論理の飛躍」で終わってしまった。いつか、本当に近いうちにいつか、自分のわがままでしまいこまれていたり、埃をかぶっていたりする娘さんたちを、まっすぐに見つめることができるようになるよう、私も成長(変身)していたいと思う。

2008年6月16日 (月)

秋葉原にて・・・

10日の書き込みはやはりひどかった。内容も途中からおかしくなっている。またブログの体裁も、改行は段落を付けるとき以外はしない方が良いようだ。

もう一度、自分の整理の意味で、あの事件について触れる。以下は、自分の職場で、事件についてやりとりしたものの転載である。10日の内容とかぶるところはあるが、ご容赦頂きたい。

私の職場では毎朝、パソコンを立ち上げると、メッセージが配信されて表示される。だいたいは、「業務改革」とか称する取り組みの「プロパガンダ」なのだが、今年に入ってから、健康に関する記事も掲載されるようになった。そして、11日の朝に配信されたのが、「うつになりやすい思考の10パターン」というものであった。記事自体に引用があるので、再引用となってしまうのだが、その10パターンというのが、一つ一つの説明は省くが以下の通りである。

①全か無か思考 ②一般化のしすぎ ③心のフィルター ④マイナス思考 ⑤結論の飛躍 ⑥拡大解釈と過小評価 ⑦感情的決めつけ ⑧すべき思考 ⑨レッテル貼り ⑩個人化

私も長い間心の安定をごまかしながら過ごしてきているが、ほとんど当てはまってしまう。そして、加藤某という犯人のことを考えると、そんな思考パターンが「先鋭化」したもののように思えてならない。

初めに断っておくが、こういう思考パターンの人が事件を起こす、と言っているわけではない。世の中には、こういう話をすると、すぐに過剰反応を起こすことがあるが、それこそ「一般化のしすぎ」であり、社会全体が「うつ」状態なのではないかと思ってしまう(ほら、私も一般化のしすぎである)。

話を戻そう。私も大いに含めて、世の中の風潮として、とにかく何かに原因・責任を求めて、なすりつけようとしすぎているように感じる。もちろん、犯人の置かれた”みじめな”境遇に、「政治」や「社会」が全く関わっていないとは言えない。全てを「自己責任」にすり替えてしまう「政治」も、どこか間違っているとは思う。

ただ、すぐに「政治が」「社会が」・・・全部が悪いからこうなんだ、と直結させるような考え方が、跋扈していることは否めない。私自身、あの事件の日の夜、母親に電話してこの話をしたときが、そうだった。

しかし、その不満の矛先は、そんな抽象的で大きなものには簡単に届くわけもなく、無力感から自然とものを言わない、声の上げられない弱い方へ向けられていく怖さを秘めているのではないだろうか。「いじめ」とはそういうものではないだろうか。(決めつけが始まった・・・)

マスコミも同じ。こういう凶悪事件が起こると、その親を引きずり出すようになってきた。犯人に罵声を浴びせかけることは物理的にも不可能だし、もしそれができたとしても、あそこまで「自己完結」してしまった彼にはまず届くとは思えない。そこで手っ取り早く、「犯人の犯人」を見つけ出して、謝罪させようとする。

確かに犯人の人格形成の由来のほとんどを成すものは、彼の親のしつけや教育によるものだ。しかし、彼はもう25歳の「成人」であり、社会的には「責任」のあるものとして、法的にも扱われている。だから、本当は親は関係がないはずだ(言い方次第で問題が起きる言い方だな)。マスコミがこういう「犯人探し」を率先してやっている以上、いくら「いじめ撲滅キャンペーン」なんてやっても、なくならないと思う。

まあ、今の「成人」が本当に「成人」しているか、と言えば、私もそうではないので、あまり大きな口はたたけないけれど。でも、それこそ新聞の受け売りなのだが、極端な「自己否定」は「自己愛」の裏返しであり、その肥大化が社会的に著しいことは確かで、それが他人や社会の全否定になって、このような無差別な凶悪事件の頻発に繋がっているようではある。特効薬はない。

・・・私も「決めつけ」と「一般化」がひどいなあ。

既に長いが、もう少し。14日の土曜日に、秋葉原に行った。行くつもりではあったが、かなり行こうか行くまいか逡巡した。やはり、どこか「怖かった」のである。ただ、上手く説明が出来ないが、同じ事件が起こるのではないか、という「怖さ」とは違うものだった。

いつもより人出がかなり少ないように感じた。私がよく行くアニメショップも、いつもならレジに並ぶ列と輻輳して、まともに商品を選ぶことができないのに、ガラガラと言って良いほど空いていた。

事件現場に設けられた献花台は花や供物があふれていた。「事件を風化させまじ」というメッセージもあった。もちろん、事件に居合わせた方、被害に遭われた方の友人・親族の方もいらっしゃったと思うが、ほとんどが「アキバの住人」というつながりだけで、純粋に冥福を祈りたい人たちの行為だと思う。「アキバの住人」はともすると、他人とつながりを求めず、自分の世界だけに引きこもろうとする人のように捉えられがちであるが、わりあいとお互いに緩い「仲間意識」のようなものがあるように思う。

私も「アキバの住人」の末端にいる者として、手を合わせ、黙祷を捧げさせて頂いた。亡くなった方々の無念さに思いを馳せるにつけ、怒りと悔しさで涙が出そうになった。

日曜日の歩行者天国が当分の間中止されるという。廃止すべきという意見もあって、商店主の方々の間でも意見が分かれているそうだ。私自身は中止に反対だ。事件は「歩行者天国」だったから起きたわけではない。

週末の秋葉原の中央通りなどの歩道は人があふれ、身動きがとれない状態になる。もし、今回の事件のようなことが起きたことを考えると、逃げ場が無く、却って危険だ。また、交通量も多いので、パニックになった群衆が車道に飛び出すと、車にはねられてしまう。

それに、事件が「銀座」や「新宿」などのもっと著名で象徴的な歩行者天国で起こったら中止するのだろうか。そこには、一部で騒がれている「パフォーマンス」への嫌悪感があるように思う。

私自身は、そのパフォーマンスを見たことはほとんどないので、具体的にどういうことが行われているのかよくは知らない。行き過ぎたものはあるようだが、「自己表現」の場として機能していたことも確かだ。今回の不幸な事件をきっかけに、芽生えた「アキバの仲間意識」が、解決してくれることを願う。そういう街だと信じている。

・・・やっぱり結論が飛躍しているなあ。

2008年6月10日 (火)

怒りとは・・・

この話題について、昨日書こうと思ったが、果たせなかった。パソコンの状態が不安定で、

ネットに接続するのもやっとだったからだ。しかし、昨日書かなくて良かったと今は思う。

怒りにまかせて殴り書くだけだったと思う。これは、神様が「今は書くな」と止めてくれたからに

違いない。

本題に入ろう。「怒り」とは、昨日発生した、例の「秋葉原通り魔事件」に対してである。

まず、お亡くなりになった方々のご冥福と、怪我をされた方々の早期のご快復を心から

お祈り申し上げる。

私もあの場所はよく訪れ、今週末にも行く予定であるだけに、非常に衝撃を受けた。

何の落ち度もない人たちが車にはねられた上に刺殺されるという、まさに「この世の地獄」。

犯人の「何もかもいやになった。誰でもよかった」という「動機」。本当に怒りがこみ上げてくる。

最近、このような事件が非常に多い。以前新聞に載った専門家の分析によれば、「間接自殺」と

言うそうだ。自分で死ぬ(自殺する)のが怖いので、人の命を奪うことで、自分が死んだ気になり、

また最終的には死刑になって、人に「殺してもらいたい」と願うことらしい。非常に迷惑な話だが、

本人の中で完結してしまっているので、たちが悪い。他人がとやかく説いたとしても、まず受け付けない

だろう。

しかし、犯人のこうした「訳の分からない怒り」は一体どこから来るのだろう。初めに断っておくが、

決して犯人に同情や共感を覚えているわけではない。人生に絶望したとしても死ぬのが怖いのなら、

失踪してしまえばいい。他人を巻き込むな、と声を大にして言いたい。

ただ、自分も常々「怒り」という感情をどう「発露」したら良いのか分からなくて、悩んでいる。

なぜこうなってしまったのか分からないが、「KY」(大嫌いな言葉)に象徴される、過剰に

「均一化」「均質化」を求められる世の中では、「怒り」という感情は、「負」の感情ということに

なってしまう。

人間だって「動物」である。「攻撃性」は誰にだってある。そうでなければ、「欲」は生まれないし、

「欲」の無い人生は、まさに「生ける屍」でしかない。それを端的に感情に表したものが「怒り」だ

と思うが、それを発露したり昇華できる機会を奪われ、みんなそれを内に秘めたまま、悶々として

生活をしている。そして突然「キレる」。「喜怒哀楽」を自由に発露できない社会は、非常に不幸だと

思う。

既に、論理が破綻してしまっているのを承知で、もうひとつの「怒り」について。TVニュースなどによれば、

犯人は「おとなしくて無口で、人付き合いが苦手で、キレると怖い」そうだ。この紋切り型の「犯人像」は

一体いつから生まれたものだろう。

まず、「キレると怖い」というのは、当たり前である。「キレる」ほど怒りを表現しているのに、怖くない人は

いない(穏やかな顔をしていたとしても目が笑っていなければ、もっと怖い)。ただ、それを抜きにしたと

しても、こうした「人物像」に当てはまらない、という人は、今の世の中少ないのではないか。

先ほど述べたように、「均一化」「均質化」を強いられる世の中では、「喜怒哀楽」を表現できる機会が

少ない。余計な摩擦を避けるために、どうしたって、「無口でおとなしく」なってしまうのではないか。

そうすると世の中の人がみんな、「犯罪予備軍」ということになってしまう。

そういうTVの紋切り型の表現は、すぐに伝播して人々の潜在意識に残り、どんな事件であっても

インタビューを受けた側はこういう表現しかしなくなってしまう。それが繰り返されると、もうそういう

「犯人像」しか描けなくなってしまう。TVなどのマスメディアの怖いところである。こうした「情報」は

すでに「情報」ではなく、報道する価値がない。

それと、「秋葉原」に代表される「サブカルチャー」に対する紋切り型の表現。確かに眉をひそめる

行動があるのは認めるし、私も「おたく」の部類に入るので擁護しがちであることも認める。ただ、

今朝の某TV局の「コメンテーター」とかいう人種のコメントには、非常に腹が立った。

正確には覚えていないが、「秋葉原は、人々が普段の悶々とした生活を一時忘れるために、刹那的な

楽しみを求める街。それを同じように悶々とした生活を送っている犯人が襲ったというのは、象徴的だ。」

というようなこと。犯人と被害に遭われた方を同一視している。こんなに失礼千万な話はない。

世の「ストレス発散」と言われているものは、おしなべて「刹那的」なものではないのか。カラオケ、酒、

ブランド品の買いあさりに始まり、パチンコ、競馬などの公営ギャンブルなどなど。基本的には本人の

中で完結すれば問題がないはずで、それは「サブカルチャー」についても同じはずである。借金する

危険性が少ないだけ、ギャンブル狂いよりは「健全」だと思うのだが。

私が考える「ストレス発散」で絶対に行ってはいけないと思うのは、某ねずみが支配する遊園地である。

そこは「現実世界を一時忘れるため」、徹底的に現実を排除した、マニュアル化された「セカイ」である。

毎週のように来るという家族というものがあるらしいが、子どもの本当の情操教育には逆効果だ。

私にとっては、こちらの方が「不健全」極まりないと思う。

自分も「評論家」になってしまっているし、うだうだになってしまったが、最後に。「怒り」がわいて

くるのを誰のせいにするのでもなく、自分の中で昇華できる対象を見つけた人が、本当の「大人」

なのかもしれない。それを見つけられず、剣の矛先を、全く関係のない人や、より弱い立場に向けざるを

得なくなってしまう世の中は本当に不幸である。ただ、人を絶対に殺すな!

2008年6月 4日 (水)

私の環境・・・

私の接続環境は、このブログを開設した時の書き込みでも触れたように、今時珍しいダイヤルアップ接続である。それで、お世話になっているニフティから、しばしばブロードバンドへの切り替えのお誘いがかかる。先日も、「ナローバンドをお使いの方へブロードバンドに対する意識調査」と題して、アンケート調査の依頼メールが来た。

ナローだと、動画は望むべくもない。ブログであっても、閲覧がやっとだ。一昔前までは、ウェブサイトに掲載する画像はなるべく軽く作るのが、「ネチケット」(死語になりつつある)の一つだった。デジカメの画像(それでもやっとメガピクセルレベル)をそのまま載せるのは、御法度だった。それがブロードバンドの普及により、一気に意味が無くなってしまった。

しかも私は、パソコン環境が古いだけではない。先日、ネット友達が某SNSに誘ってくれたのだが、それに応えてユーザ登録をしようとしたら、PCメールだけでなく、携帯メールアドレスまで要求された。携帯からでもアクセスできるかららしい。

それで、携帯から登録しようとしたら、「非対応機種です」とのメッセージ。そう、私の携帯は第3世代でないのはもとより、この機種に更新してから既に4年が経とうとしている。この4年の間に携帯を巡る環境も大きく様変わりしてしまったことを痛感した次第。

結局、PCと携帯の両方から登録しなければ、ユーザ登録はできないとのことであり、せっかく誘っていただいたのに、参加できないことになってしまった。この場をお借りして、お詫び申し上げる。

PCにしても携帯にしても、もう替え時なのかもしれない。

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