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2008年7月

2008年7月27日 (日)

「劇場」としているもの・・・

7月に入って「祝!1ヶ月!」なんて言っていたくせに、その記事を再編集したこと以外は、ちっとも更新しなかった。やっぱり自分には、何かを始めるのは良いが(その代わり決心には時間がかかる)、いざ始めてしまうと、少しの間は「お祭り」状態になって張り切るものの、始めたことだけで満足してしまうという悪い癖がある。まあ、そんなに気張っても意味があるわけでもないので、書きたいことがたまったら、またゆっくり書き始めるというペースで続けていこうと思う。

そして、ここを留守にしている間に、東北地方には再び地震が襲い、悲惨な事件が相次いで起こった。ひとつは就寝中の父親を娘が刺殺した事件、もうひとつは、またしても無差別殺傷事件だ。「無差別殺傷事件」に至っては、「街をおちおち歩けなくなった」なんて言っている間に、また次の事件が起こるということの繰り返しで、今年に入ってからすでに8件も起こっているそうだ。被害に遭われた方々、そのご家族・ご遺族、ご友人、関係者の方々には本当に申し訳ない言い方になってしまうが、「そうだ」と言わなければならないくらい、あっという間に過ぎ去ってしまっている。

それにしても、今回の八王子での事件の犯人である「菅野某」の言い草は何だ。「仕事のことを親に相談しても取り合ってもらえなかった」から「むしゃくしゃ」して、「最近無差別殺傷事件があちこちでおきている」から、「親を困らせよう」と事件を起こした。「誰でも良かった」。私自身、それほど成熟した人間ではないけれど、これが33歳の男の言うことか。私の世代が中学・高校の頃に問題になった「校内暴力」や「つっぱり」などという、当時の(いわゆる)”不良(非行)少年”の論理となんら変わりなく、そんなことで無関係の人を殺せるのか、と愕然とする。まだ、その頃の”不良少年”の場合は、その「第二次反抗期」の有り余るエネルギーの「ぶつけどころ」を一生懸命探して、苦しみもがいていたように思える。

秋葉原事件や土浦事件、ホームから人を突き落とした岡山事件、そして今回の八王子事件、それぞれに共通しているのが、「親を困らせたかった」というような動機。親を殺してしまった川口事件も、事件の種類は違うが、性質としては同じようなものだと思う。

今回の事件で犯人と親の「言い分」が食い違っていることからでも分かるように、「親子関係の希薄さ」、そういうこともあるだろう。でも私には犯人の家庭の事情は分からないし、この部分の議論は”教育評論家”とかいう人たちに任せる。「ネット社会」や「格差社会」、それぞれを問題とする議論も良く語られるところで、秋葉原事件の時にもここに書いたが、何でもかんでも「自己責任」に押し付ける「政治」や「社会」のあり方は、もっと考え直したほうが良い。ただ、こうした事件が「劇場型犯罪」と言われるようになったこと自体に、もっと大きな問題があるのではないだろうか。

「劇場型犯罪」という言葉は元々、現在推移している未解決事件に対して言う言葉だったそうだが、犯人も逮捕されて、その犯罪の捜査過程が大々的に報道されるような事件についても、こう呼ぶようになったそうだ。非常に不謹慎な言い方になるので大変申し訳ないのだが、ここにおいて「主演俳優」は「犯人」であり、「観客」は「一般人」である。しかし、それが「演劇」として成り立つためには「場」が必要である。それを提供しているのは誰(何)か。無論、「マスコミ」だ。

秋葉原事件の場合は、その「劇場」の前に「ネット」があった。そこで「主演」を演じようとした犯人は、掲示板に誰からも反応がないことに勝手な「孤独感」を募らせ「自棄」を起こした。無理やり「主演」になるために、今度は「マスコミ」を利用しようと、あんな暴挙に出た。その裏にあるものは、「親への復讐」。他の事件でも同様である。

奇しくも犯人自身が供述しているとおり、自分の犯罪が報道されることにより、親の「面目をつぶす」ことができるのである。秋葉原事件の時にもここに書いたが、最近の事件では、マスコミが犯人の実家に押しかけ、その親に会見を求めることが多くなった。この会見において、自分が引き起こした事件を知った親に泣き崩れさせたい、と思っているのである。しかし、本当に「泣き崩れさせたい」と思っているのは、犯人なのだろうか?

それを見たがっている「一般の人々」だという議論もあるだろう。しかし、「主演」と「観客」だけでは「演劇」は成立しない。私は、「劇場」を提供している「マスコミ」の責任は大きいと思う。そして、その「劇場」を大きくすればするほど(報道すればするほど)、「共演者」を増やせば増やすほど(犯人の家族、場合によっては被害者のご家族・関係者を呼び出す)、犯人(予備軍を含めて)は、「大俳優」を気取りやすくなる。「観客」も余計な関心を抱いてしまう(私自身の反省も含めて)。

そして、そういう報道が繰り返されることで、被害者や被害者のご家族の心の傷は大きくなる。そうでなくても、その犯人の裁判の中で、事実や動機が分かってくる(または、分からないままにされる)ことで、必要以上に増幅されることが多い。いわゆる「二次被害」だ。だから、「被害者の人権」のためにも、こうした事件については、とにかく事実だけを伝えるという、必要最小限の報道とすべきだ。そうすれば、「劇場」が小さくなったことで、「俳優予備軍」も、変な「主演気取り」を起こしたりしなくなると思うのだ。

もちろん、これだけで、このような凶悪な事件がなくなるとは思わない。しかし、「演劇」とさせない努力は、こういうところから始まるのだと思うのだ。

2008年7月 6日 (日)

「文体」って・・・

7月になって初めての投稿です。5月の下旬に急に思い立ってブログを始めてから、週1~2回程度の投稿を続け、「祝!1ヶ月!」ってところですね。これからも、「気が向いた時だけ」、焦らずゆっくりまったり更新を続けていこうと思います。

なんて、いつもと違う「文体」(?)で書いています。どうしてこんなことをしようと思ったのかというと、この1ヶ月の更新で感じていたことが、先日見たTV番組の内容と重なるような感じがしたからです。 まず、自分の記事を読み返すと、本当に「長い」。実際、一つの記事に2時間半はかかっています。それだけいろいろと書くことは出来るし、少しは自信があるのだけれど、どうも無駄な言葉が多いようです。一言で言えば「回りくどい」。カットしても良いところも目に付きます。

でも、そうやってカットしても良い部分が多い割りには、結論が弱かったり、結論(めいたこと)に一足飛びに「跳躍」したりしてしまいます。 どうしてこんなことが起きるのか自分なりに考えると、やはり思考が弱いんですね。自分の中では繋がっていることでも、こうやって文字に起こすと、その思考の弱さが否が応でも露呈することになります。それを何とか無意識のうちに「ごまかそう」として、とにかく紙幅を費やして説明しようとするので、回りくどい表現になってしまうのだと思います。

これは現実世界でも同じで、職場で人にものを頼んだりすることが上手く出来ず、よく「何が言いたいの?」と言われてしまいます。言葉数が多い割りには、本当に言いたいことが埋没してしまうようです。 その「思考」と「言葉」をつなぐものが、いろんな「経験」なのでしょう。他人との関わり合いや仕事という「実体験」はもちろんのこと、「読書体験」というのも非常に重要なのだ、ということを最近痛切に感じるとともに、後悔を感じています。

先日、シンガーソングライターの小椋桂さんがゲストの音楽番組がありました。小椋さんの作品を詳しく知っているわけではありませんが、どの作品の詞も美しく印象的だと思っています(本当に貧弱な語彙)。その小椋さんは大学在学中に、「昭和のカリスマ」寺山修司の詩のサークル(?)に参加しており、それが後にシンガーソングライターになったきっかけのひとつだったそうです。

「寺山修司」と言っても、私も名前だけでよく分からないのが非常に恥ずかしいのですが、小椋さんがそのサークルで寺山から学んだいちばん大きなことは、「言葉の意味や文脈を破壊する」といったようなことだそうです(正確に覚えていないのも恥ずかしい・・・)。その話の中で非常に印象的だったのは、言葉は所詮「借り物」だということ。

人は成長するとともに、「言葉」を親や周囲から学んでいきます。しかし、その「言葉」も、それと表裏一体の「意味」も自分が生まれる前から存在しているわけで、ずっとずっと昔の先人が生み出したもの。私たちは、先人の「経験」によって生み出された「言葉」をいかにも自分自身が経験したかのように紡ぎ、結果として、経験したような気になっていることもあるのだと思います。寺山は、ある単語には、全くそぐわない別の単語を組み合わせたりして、それを徹底的に破壊することで新しい表現を模索していたのだそうです。

既に話が破綻していますが、本題にやっと突入しようと思います。「文体」という言葉があります。特に小説などの世界で、その作家の特徴的な表現様式のことだと理解していますが、いわば「書きクセ」みたいなものでしょう。画家や芸術家、また小説家や漫画家と言った人たちは、こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、初めは自分が好きな先人の作品の模写や真似からその世界に入るものです。別にそういう世界に生きなくても、マンガやアニメの絵をひたすら子どもの頃に描いた経験のある人は多いはずです。「まなぶ(学ぶ)」とは「まねぶ(真似ぶ)」ことだ、という話もよく聞いたりします。人が物事を身につける上で、真似ることは非常に大きな意味を持ちます。

しかし、凡人と芸術や文学に生きる人たちの間の大きな違いは、おそらく、先人の作品に数多く触れることから始まる「真似」の体験を徹底的に積むことで、エネルギーを蓄え、今度は自分の実生活での体験・経験を元にした「オリジナリティ」でもってその「真似」を破壊し、その人なりの表現様式である「文体」を築き上げることにあるのでしょう。

そう考えると、私の「文体」とは何でしょう?こういう回りくどさが「文体」だと言えばそれまでですが、「読書体験」の乏しさが、物事を順序立てて考えたり、まとめたりする能力に欠けている最大の元凶のように思えます。最初の「真似の体験」が十分に積めていなかったので、多分、実生活での経験もうまく積み上げられなかったように感じるのです。

この点は後悔したところで「後の祭り」だと思います。でも、せめてこの「ブログ」で、構成することの学習を続けていき、自分なりの「文体」を見つけていけたらと考えています。短い言葉でも心を打てるようになるように ・・・ああ、何書いているのか本当に分からなくなった。

【お詫び】

「寺山修司」なんて人名を出してしまったがために、ぐぐってこの駄文を表示させてしまった方へ。。。このカリスマの名を軽々に出すような身の程知らずなことをして本当にごめんなさい。

【メモ】

2008年7月6日第一稿公開 7月10日修正の上再掲載

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