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2008年7月 6日 (日)

「文体」って・・・

7月になって初めての投稿です。5月の下旬に急に思い立ってブログを始めてから、週1~2回程度の投稿を続け、「祝!1ヶ月!」ってところですね。これからも、「気が向いた時だけ」、焦らずゆっくりまったり更新を続けていこうと思います。

なんて、いつもと違う「文体」(?)で書いています。どうしてこんなことをしようと思ったのかというと、この1ヶ月の更新で感じていたことが、先日見たTV番組の内容と重なるような感じがしたからです。 まず、自分の記事を読み返すと、本当に「長い」。実際、一つの記事に2時間半はかかっています。それだけいろいろと書くことは出来るし、少しは自信があるのだけれど、どうも無駄な言葉が多いようです。一言で言えば「回りくどい」。カットしても良いところも目に付きます。

でも、そうやってカットしても良い部分が多い割りには、結論が弱かったり、結論(めいたこと)に一足飛びに「跳躍」したりしてしまいます。 どうしてこんなことが起きるのか自分なりに考えると、やはり思考が弱いんですね。自分の中では繋がっていることでも、こうやって文字に起こすと、その思考の弱さが否が応でも露呈することになります。それを何とか無意識のうちに「ごまかそう」として、とにかく紙幅を費やして説明しようとするので、回りくどい表現になってしまうのだと思います。

これは現実世界でも同じで、職場で人にものを頼んだりすることが上手く出来ず、よく「何が言いたいの?」と言われてしまいます。言葉数が多い割りには、本当に言いたいことが埋没してしまうようです。 その「思考」と「言葉」をつなぐものが、いろんな「経験」なのでしょう。他人との関わり合いや仕事という「実体験」はもちろんのこと、「読書体験」というのも非常に重要なのだ、ということを最近痛切に感じるとともに、後悔を感じています。

先日、シンガーソングライターの小椋桂さんがゲストの音楽番組がありました。小椋さんの作品を詳しく知っているわけではありませんが、どの作品の詞も美しく印象的だと思っています(本当に貧弱な語彙)。その小椋さんは大学在学中に、「昭和のカリスマ」寺山修司の詩のサークル(?)に参加しており、それが後にシンガーソングライターになったきっかけのひとつだったそうです。

「寺山修司」と言っても、私も名前だけでよく分からないのが非常に恥ずかしいのですが、小椋さんがそのサークルで寺山から学んだいちばん大きなことは、「言葉の意味や文脈を破壊する」といったようなことだそうです(正確に覚えていないのも恥ずかしい・・・)。その話の中で非常に印象的だったのは、言葉は所詮「借り物」だということ。

人は成長するとともに、「言葉」を親や周囲から学んでいきます。しかし、その「言葉」も、それと表裏一体の「意味」も自分が生まれる前から存在しているわけで、ずっとずっと昔の先人が生み出したもの。私たちは、先人の「経験」によって生み出された「言葉」をいかにも自分自身が経験したかのように紡ぎ、結果として、経験したような気になっていることもあるのだと思います。寺山は、ある単語には、全くそぐわない別の単語を組み合わせたりして、それを徹底的に破壊することで新しい表現を模索していたのだそうです。

既に話が破綻していますが、本題にやっと突入しようと思います。「文体」という言葉があります。特に小説などの世界で、その作家の特徴的な表現様式のことだと理解していますが、いわば「書きクセ」みたいなものでしょう。画家や芸術家、また小説家や漫画家と言った人たちは、こういう言い方は語弊があるかもしれませんが、初めは自分が好きな先人の作品の模写や真似からその世界に入るものです。別にそういう世界に生きなくても、マンガやアニメの絵をひたすら子どもの頃に描いた経験のある人は多いはずです。「まなぶ(学ぶ)」とは「まねぶ(真似ぶ)」ことだ、という話もよく聞いたりします。人が物事を身につける上で、真似ることは非常に大きな意味を持ちます。

しかし、凡人と芸術や文学に生きる人たちの間の大きな違いは、おそらく、先人の作品に数多く触れることから始まる「真似」の体験を徹底的に積むことで、エネルギーを蓄え、今度は自分の実生活での体験・経験を元にした「オリジナリティ」でもってその「真似」を破壊し、その人なりの表現様式である「文体」を築き上げることにあるのでしょう。

そう考えると、私の「文体」とは何でしょう?こういう回りくどさが「文体」だと言えばそれまでですが、「読書体験」の乏しさが、物事を順序立てて考えたり、まとめたりする能力に欠けている最大の元凶のように思えます。最初の「真似の体験」が十分に積めていなかったので、多分、実生活での経験もうまく積み上げられなかったように感じるのです。

この点は後悔したところで「後の祭り」だと思います。でも、せめてこの「ブログ」で、構成することの学習を続けていき、自分なりの「文体」を見つけていけたらと考えています。短い言葉でも心を打てるようになるように ・・・ああ、何書いているのか本当に分からなくなった。

【お詫び】

「寺山修司」なんて人名を出してしまったがために、ぐぐってこの駄文を表示させてしまった方へ。。。このカリスマの名を軽々に出すような身の程知らずなことをして本当にごめんなさい。

【メモ】

2008年7月6日第一稿公開 7月10日修正の上再掲載

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