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2009年7月

2009年7月28日 (火)

大正ロマンと昭和モダン・・・

職場である工場が、夏の電力使用制限のために金曜日から5連休だった。暑いのと、天気があまり安定しないのとで、買い物以外は全く外に出なかったが、今日は思い切って「遠出」することとした。行先は、北茨城市にある「茨城県天心記念五浦美術館」。5年ぶりである。

ここは美術館としては規模は小さいものの雰囲気が良く、また、太平洋に面した高台にあり、眺望が非常に素晴らしい。例によって8年前くらいの写真が残っていたので、載せてみる。ちなみに今日の天気は曇りで、こんなに奇麗な景色は見られなかった。

P21000841 ←美術館 Pa2003501

←美術館裏からの眺望

話がそれた。目的は、大正から昭和にかけて流行した「抒情画」の企画展「大正ロマン・昭和モダン 大衆芸術の時代展 - 竹久夢二から中原淳一まで -」の鑑賞だ。

「抒情画」の世界は、東京のS君に「弥生美術館」(東京・根津)へ連れて行ってもらったことから興味を持ち始めた。「抒情画」は、「宵待草」で知られる「竹久夢二」をその嚆矢とすることができ、大正中期・昭和初期の少年・少女雑誌の挿絵・付録画などを経て、戦後の「中原淳一」による「ファッション」の提案に至る流れと、そこから分岐して「いわさきちひろ」を代表とする「童画」、現代の絵本へ至る流れの「源流」に当たる。

展覧会は題名通り、「竹久夢二」から取り上げられていた。夢二の絵は、単純で即興的な線でありながら(おそらく即興では書いていないだろうが)、もう絶滅してしまった日本女性の美しさの一つである「しな」の描き方が、本当になまめかしく感じた。しかもそれは、彩色された絵よりも、鉛筆だけの素描に顕著だった。

次に取り上げられていたのは、「高畠華宵」。「弥生美術館」は、元々この人のために作られた美術館である(夢二の記念館も併設されている)。夢二とは対極にあると言える、非常に「凛」とした「中性的」な美少年・美少女像であり、どこかギリシャ彫刻を思わせる。

続く「蕗谷虹児」は、美人画こそ夢二の影響を受けているように思われるが、少年・少女向け雑誌の挿絵には、のちの「いわさきちひろ」の「童画」へ繋がるようなものを感じさせる。「松本かつぢ」は展示が少なかったが、それまでの画家の描く「細面で細い眼」の女性像とは全く異なる、独特の「丸顔でつぶらな瞳」の少女像で異彩を放っていた。ちなみにかつぢは、のちに「クルクルクルミちゃん」という「少女漫画の祖」と言うべき漫画を描いている。

「中原淳一」は、戦前の絵には夢二の影響が大きい。しかし、眼はかつぢと同じようにつぶらで、印象が異なる。ただしこの人は、戦前の活躍よりも戦後になってからの活躍の方に大きな意味があり、「それいゆ」という少女向け雑誌を創刊し、服飾にとどまらない「ファッション」のあり方を提案していくことになる。

その他、いろいろな画家の絵が展示されていたが、先述の「細面で細い眼」の女性像に、やはり夢二の大きな影響が感じられた。

うだうだになっているが、もうひとつ。元々「挿絵」というものに価値があまりなかった時代であったからこそ、「作者不明」となっている絵がいくつかあった。また、作者名が分かっているにもかかわらず、「生没年不詳」という画家がいた。別に「先史」という訳ではなく、たかだか70~80年くらい前の人たちなのに、である。こうした「無名」の画家たちは、虹児、華宵、淳一といった有名になった画家たちの陰で、あるかないかの仕事で糊口をしのいでいたのだろう。研究が進んで、こういう人たちにも光が当たって欲しいと願うばかりである。

2009年7月27日 (月)

英訳その2

勉強のつもりで英訳してみたものを掲載する。予想以上に難しかった。一から英文法を勉強し直さなければ。
男ならだいたい誰でも身につまされそうな、それでいて甘酸っぱい気持ちにさせる名曲、故村下孝蔵の「初恋」である。それにしても日本語の「恋」って、本当に「love」なのか?それから、思春期の男の子が「好きだ」って勇気をもって告白するときの「好き」って、単純に「I love you.」とは訳せないと思うのは、恋愛経験のない私だけの妄想?そんなことを踏まえて次のようになった。

The rain in May was green
It was a lonely afternoon that made me sad
I came to love and be lonesome
I'd been holding love that couldn't reach you

I didn't manage to say "I like you very much"
My first love was imbalanced like a pendulum toy

There was you running about the ground after school
There was always I following you with my eyes from a distance
Having been light dreams, those days can't leave from my heart

The sunset gow was the color of an apricot
I was whistling alone on my way from school
I didn't even managed to call your name
I was gazing at my heart swayed by you

I didn't manage to say "I like you very much"
My first love was imbalanced like a pendulum toy

As if dancing flower petals in the wind had disarranged the water surface
Whenever I wrote the letters "LOVE"
I trembled and agonized myself in those days
Having been light dreams, those days can't leave from my heart

There was you running about the ground after school
There was always I following you with my eyes from a distance
Having been light dreams, those days can't leave from my heart

My first love can't leave from my heart
My first love is still in my heart

※Original lylics by Murashita Kozo, translated by Yoisho

2009年7月24日 (金)

中なんかいない!

先日の日曜日、東京の友人S君と、S君の友人3人の計5人で、東京ビッグサイトで行われた「東京おもちゃショー」へ出かけた。お人形にはまっていた10年前ころは連続して4・5回行った記憶があるが曖昧だ。「コメットさん」もそこで知ったわけで、ある意味、非常に思い出深いイベントである。

最初のお目当ては、一部のマニアの中で「33時半のアニメ」といわれている「ジュ○ル○ット」のショー(以前にも「ずっきゅーん」というアニメ(名前はウソ)があった)。本来の小さいお友達の中に、むさくるしいのが5人。こういうのに慣れてしまった自分が、恥ずかしい。

主人公(?)のジ○エ○ペットの「ルビー」の気ぐるみ(いや、中なんかいない)と、お姉さんたちのショーだった。そして何より驚いたのが、「サプライズゲスト」として、このアニメのオープニングを歌っている「浅香唯」が登場したこと。歌を再開したこと自体も驚きだったが、まさかこんなところに出てくるとは。

我々「かなり大きいお友達」にとっては、「3代目スケバン刑事」で有名な80年代を代表するアイドルの一人である。年は私の一つ下で、あまり変わらない(つまりは今年で○○歳)。でも赤いハート(?)をちりばめた、その頃のアイドルそのものといった衣装で登場した時は、思わず「若い!」と叫んでしまった。あの頃のアイドルは、「歌が下手」とかよく言われていたが(確かに下手のなのもたくさんいた)、どうしてどうして、声量もあってどうどうとした歌いっぷりであった。

その後、5人でいろいろ見て昼食をとったのち、二人と三人に分かれて行動した。私とS君、その友人の一人は、「タカラトミー」のブースへ。ちょうど、「リカちゃん」のショーが始まるということで、やはりむさくるしい3人が、小さいお友達とその保護者(たぶん我々より若い)に混じって見ることにした。

リカちゃんの着ぐるみ(いや、中なんかいない!)は、私が初めて見た頃は、非常に野暮ったい感じだった。2002年のおもちゃショー(この頃は春5月開催だった)のデジカメ写真が残っていたので、ちょっとそこだけくりぬいて、サイズを小さくするとこんな感じである。

Licca2002_4 タカラが一時的に潤っていた頃で、いろいろ凝ったブースだったため、暗いのと、衣装のせいでもあると思うが、なんか頭が重そうである。

それが、今年のリカちゃんは、

090719_1312 こんな感じ。遠目からで、しかも携帯の写真だからかもしれないが、ずいぶんすっきりとした印象である。実際のお人形のイメージに近づいている。そして、「マリアちゃん」なるお友達の着ぐるみ(いや、中なんかいない!)まで出てきて、小さいお友達に「一緒に踊りましょ」と誘う。その音楽が、リカちゃんのCMソングで、やたら難しかったのには笑ってしまった。

090719_1318_3 生まれてからの一番の親友である「いずみちゃん」の着ぐるみ(中な(ry)は作られたことがあったのだろうか。

キモい話はこれくらいにして、「タカラトミー」には、「トミカ」と「プラレール」という、この企業を代表する商品がある。どちらも「旧トミー」からのもので、「旧タカラ」ファンとしては少々忸怩たるものがあるが、どちらも良くできたおもちゃで、だからこそ長く続くシリーズとして、好きな商品である。

ブースの裏手は、「お買いものエリア」だった。そこには、新製品が多くあったが、中には「デッドストック」と思われるものも(笑)。そして「トミカ」のコーナーには、たくさんの車種があった。びっくりするほどいろいろな車種があり、乗用車の他にも、パトカーや消防車、トラック、果てには、建設機械(ショベルカーなど)まであった。一番驚いたのは、その建設機械を改造して、日本の企業が送り出している「対人地雷除去機」なるものまで。

そういったラインナップを、いろいろと眺めていたら、前を小学1年になるかならないかくらいの男の子が通り、買ってもらおうと、ひとつの車を手にとって、母親に見せた。そこには「清掃車」の文字が。

男の子は純粋に、その荷台(つまりゴミを蓄える部分)が青いトラックが気になって欲しくなったに違いない。小さい子供は、いわゆる「はたらくくるま」が好きなものである。しかし、その母親が男の子に言った言葉は、「もっとあっちに違うものがあったでしょ」。

母親は「清掃車」のイメージから、そう言ったのだと思う。毎日の生活に欠かせないが、誰もしたがらないことをしてくれる車であってもだ。男の子は促されて他の車を探していた。

こうした親の何気ない一言が、子供にとって大きな影響を与える。何か空恐ろしいものを感じると同時に、自分が親だったら、いったいどうだっただろうと、考えてしまった。

2009年7月18日 (土)

青春の影・・・

英語と音楽ネタが続いているが、今日もその続き(これで打ち止めか?)。「カーペンターズ」が結成40年だそうで、ミーハーにも記念に発売されたアルバムを購入した。以前、通販の廉価版を購入したことがあったが、ケースなどがボロボロになってしまったので、改めて購入したのだ。

この期間は、ほぼ私のこれまでの「人生」と同じ。しかし、カーペンターズの活動自体は、ご存知の通り、カレンの早すぎる死によって終止符が打たれ、それからも、もう26年経っているのだという。私自身は、リアルタイムであったとは言え、彼らの活動時期には積極的に聴いたことがなく、聴くようになったのはつい10年くらい前のことにすぎない。

カレンの明るく快活な歌声と、軽快な音楽はカーペンターズの一つの大きな特徴だが、もちろん中には、メランコリーなしっとりした楽曲もある。そんな中で「I Need To Be In Love」、邦題「青春の輝き」という曲がある。

しかし詞の内容は、「輝き」には程遠い。どちらかと言えば「後悔」である。私は、この詞の主人公のように、言い寄ってくる人もいないし、ましてや袖にしたこともないが、「恋愛」の要素を全く抜きにして、字面だけを追った場合でも非常に共感できる箇所がある。

It took while for me to learn
That nothin' comes for free
The price I've paid is high enough for me

I know I need to be in love
I know I've wasted too much time
I know I ask perfection of
A quite imperfect world
And fool enough to think that's what I'll find

(訳)
ただで手に入るものなんてないということが
分かるまでに時間がかかってしまった。
私にとっては高い買い物だった。

私には恋することが必要だって分かった。
あまりにも時間を浪費してしまったことも分かった。
こんなに不完全な世の中で完璧なものを求めようとして、
そんなことはとてもばからしいことだって、やっとわかった。

「I know I need to be in love」のくだりはともかく、自分にとってはものすごく当てはまることで、これを聴くたびに非常に切ない思いになる。自分の不完全な状況を全部周囲の「不完全さ」のせいにして、悶々と過ごしてきてしまった。実際にお金も時間もかなり浪費した。気がつけば、もうすっかり「おじさん」になってしまった。私にとって「青春」は「輝き」どころか、「影」ばかりだった。そのことを痛切に感じさせられるのである。

それしても、この曲の邦題を「青春の輝き」とした人はどういう意図があったのだろう。詞の全体を眺めてみても「輝き」と言える箇所はなく、「後悔」または「影」とでもいった方が当てはまる内容である。

単純に「セールス」のため、かもしれない。でも、そういうことに気が付けること自体が、本当の「青春」であり「価値」なのであって、私みたいなのが「当てはまらない」ということの方が間違っているのだろう。

こういう例は80年代以前の曲によくある。ここで、オリビア・ニュートン=ジョンの「Have You Never Been Mellow」を訳したこともあったが、これも邦題はなぜか「そよ風の誘惑」である。疲れている人をいたわる内容だが、とりようによっては「誘惑」なのだろうか?

ただ、こうした一癖二癖ひねった邦題が、その曲の日本でのセールスに大きく影響したことは確かだろう。初めはラジオか何かで聴いた曲に惹かれ、その題名は、と問えば、こういう邦題が示される。リスナーが本当の詞の内容を知るのはその後だが、それでもまず幻滅するようなことはなかったに違いない。

それは昔の洋画もそうだった。必ず邦題がつけられていた。映画評論家の故水野晴郎氏は、「007シリーズ」のある作品の副題を、わざと「・・・危機一発」と間違った表記をした。それが現在では、よく間違えられる漢字の例に挙げられてしまうほど、「定着」してしまった。でも、それだけインパクトが大きかったということだろう。

それが、今はすべて、洋楽も洋画も、題名はカタカナでそのまま表記されるようになってしまった。洋画の場合は日本語の副題がつくこともあるが、極めてまれである。

理由は「原題のイメージを損ねないようにするため」らしい。もっともなようだが、私にはそれが、プロモートする側の「言い訳」であり、「怠慢」のような気がしてならない。邦題が「間違った」ために客がつかなかったりするのを恐れているのだろう。私から言えば、「カタカナ」題名では、ヒーローものはともかく、その他の映画や洋楽ではなんのことか分からない。人のことを言えた義理ではないが、プロモート側の「想像力」が欠如してしまったのだと思う。

閑話休題。クリスマスシーズンになると、どこからともなく「WHAM!(ワム!)」の「Last Christmas」が流れる。曲調が非常にロマンチックなので、TVで恋人たちがいる風景のBGMとしてよく使われている。しかし、ご存知の方も多いと思われるが、非常に間違っている。あれは、去年のクリスマスの頃に振られた元恋人に対する「恨み節」と「当てつけ」の曲だ。まあ、「そよ風の誘惑」や「青春の輝き」の場合の裏返し、と言えなくもないが。

2009年7月10日 (金)

「日本語」について・・・

先日、「英語」について書いたので、「日本語」について書かねばなるまい。その時にも書いたとおり、私は「日本語」が大好きだ。しかし、別に私は「言語学者」でもないし、学生時代に研究したことはない。だから、かなり間違った理解であることは、初めに断っておかなければならないし、それは「英語」についてもそうである。

ちなみに、「声に出して云々」や「百ます云々」の先生方のような「国語勉強法」は、私は大嫌いである。何か気持ち悪い。「声に出して云々」の先生は、NHK教育の「にほんごであそぼ」を監修しているが、面白いコンテンツはあるものの、今ひとつ好きになれないのはそこにある。まあ、これは私自身がひねくれているからでもあるのだが。

私たちは「日本語」を、どこかで「アルタイ語族」とか習ったような気がする。しかし、「アルタイ語」なんてものが、どういうものであって、どこで話されているのかなんて、私は全く知らないし、ほとんどの人は知らないと思う。ただこの説は、現在、ほぼ否定の方向で議論になっているらしい。

よく、何年かおきに「日本語の起源を○○で見つけた!」みたいなTV番組が放送される。そういうものを見ると、「何かを指す名詞の発音が日本語のそれと似ている」だとか「ものの数え方が似ている」だとか、例を挙げて「検証」している。ただ、人間が話す言葉である以上、そこに挙げられる以外の語彙は「検証」し切れないほどあるし、人間の祖先をたどれば、どこかにたどり着く。たまたま似た語彙があってもおかしくない。非常に「眉唾物」である。

話がそれた。なぜ「日本語」が好きなのか、ということについて、である。確かに「美しい」から。でも、「美しい」かどうかは主観的なもので、どんな言語であれ、生まれてきた赤ん坊に「母語」は基本的に選べないし、その言葉を話す民族にとっては、それが「美しい」ことになるので、もう少し具体的に私が「美しい」と感じるところについて書いてみたい。

一つ目には、あまりにも「文法的にフリーダム」だということ。英語の文型(S+V+Cのようなもの)のような定型はほとんどない。全くないと言ってしまうと語弊があるが、逆に定型にあてはめようとすればするほど、分からなくなってしまうものらしい。

具体的には、助詞(いわゆる「てにをは」など)をつけてしまえば、英語の主語や目的語にあたるものはどれかが分かり、語順は自由だ。また、特に話し言葉では、主語と述語の位置が逆転する「倒置法」が普通に行われる。また、古文の世界では確かに「係り結び」(「こそ」には「已然形」とか)のようなものはあったが、現在では詩歌の世界をのぞいてほぼ消滅したといってもいい。

主語は、話し手と聞き手、書き手と読み手の中で、何の話であるのか無意識の「合意」が出来ていれば、省略してしまって構わない。逆に、常に「・・・が」「・・・は」を繰り返すと、おしつけがましくうるさく感じる。また、「時制」についても、現代語においては比較的緩やかで、過去の話をするとき、主語と同じように「・・・した」「・・・だった」を繰り返すと、話や文章が単調になってしまう。

二つ目に、他の言語で一番苦労させられる動詞の「活用」は、日本語にはない。つまり、「人称変化」(一人称・二人称・三人称・ジェンダーなど)や「時制変化」(過去形など)がない。まあ、「活用」そのものはあることはあるのだが、日本語における「活用」は、動詞や形容詞、形容動詞(認めない学者もいるそう)、助動詞が他の品詞にくっつくときの変化を指す。現代日本語における「活用」は、一部のサ行変格活用(する)・カ行変格活用(来る)をのぞいて、日本語の音韻(50音)がわかれば単純である。

三つ目は「否定語は最後まで分からない」ということ。否定の「ない」は常に述語の語尾につく。英語などのヨーロッパ系の言語のように最初に「not」を言わないことは、やはり、昔は「奥ゆかしさ」、「グローバリズム」の現代では「煮え切らなさ」とでも言わなければならないような日本人の「根っこ」に非常に影響していると思う。

四つ目に、「オノマトペ(擬音語・擬態語)」の豊富なことである。動物の鳴き声、機械の作動する音などはともかく、全く音のしない状態なのに「シーン」という「音」がする。「雪がしんしんと降る」というような表現は、本当にどこから出てきたのだろう。これは、日本のアニメやマンガでは欠かせない存在であり、これがあったから、大きく発展したのだと思う。

そして最後に、なんといっても書き表せる文字も豊富であることである。我々の祖先は輸入した「漢字」に飽き足らず、「ひらがな」「カタカナ」を生み出した。そして近代になって「ローマ字」である。こうした文字があったからこそ、先人達は柔軟に外国から新しい知識を輸入でき、自分たちなりに新しい解釈もして吸収していったのだろうと思う。特に「明治維新」後の急速な日本の発展は、それ抜きでは多分なしえなかった。

文字種が多い(特に漢字)ということは、確かに覚えるのは大変かもしれないが、字面に変化を持たせる。「名著」と言われるものは字面だけみても美しいと言われる。

・・・やっぱり、ぐだぐだになってしまった。おそらく字面でもダメダメだ。それでも、こんな面倒くさくもフリーダムな日本語が大好きであることは、最後にもう一度言っておきたい。

2009年7月 6日 (月)

LIGHT OF LOVE by MOKA☆・・・

アニメ「コメットさん☆」からのファンで、このブログでもアルバムの感想などを書いている「MOKA☆」さんの曲を英訳してみた。

この曲は、元々「コメットさん☆」のBGMとして使用されていて、作品世界のテーマともなっていた「JOY OF LOVE」という曲を、のちにMOKA☆さんがアレンジの上、歌詞をつけてアルバムに収録したものである。アルバム名は「EVIDENCE OF LIFE」で、MOKA☆さんの初めてのアルバムである。MOKA☆さんのサイトはこちら、そしてライナーノーツはこちら にあるので、気になった方はぜひお買い求めください(笑)。

ところで、このMOKA☆さんは、非常に言語感覚の鋭い方で、日本語詞の他に、英語詞も、果ては「ラテン語詞」(アニメ「エルフェンリート」の「LILIUM」)まで書いて、それに曲をつけている。その才能にはほど遠く、韻も字脚(?音節数のこと)もバラバラだが、恥を覚悟で以下に掲載する。

Towards the light, I'm feeling you
I'm singing my love as evidence of my life
That's the only thing I can do

Upon the world I can't see, I'm gazing straight
My melodies, my voices, and my overflowing love
I'd like to give you in my own way

My spiral loneliness, the contrast to my weakness
It's only me that can overcome myself
Your dazzling attraction will be my power
That makes me go up the stairs of my heart step by step

I'm felling you that I'll meet in the future
I'm singing my moment as evidence of my love to you
In my flank and own way

Towards the light, I'm singing my love

Towards the light, I'm feeling you
I'm singing my love as evidence of my life
Notice me please, that am waiting for you here
That's the only thing I can do

*Original Lyrics by MOKA☆ from their 1st album "EVIDENCE OF LIFE". Translated by Yoisho.

「英語」について・・・

最近、職場に外国から実習生が来て、「英語」を使わなければならなくなった。「英会話」というのは非常に苦手で、しかも「ボキャブラリー」が貧弱なので、いつも四苦八苦している。

しかし、「英語」そのものは大好きである。ひとえに中学時代の英語の先生のおかげである。実はこの「よいしょ」というHNは、その先生が「あだ名」として付けてくれたものだ。だから、中学から高校にかけて、英語については、自慢ではないが本当によく勉強した。当時のNHKのラジオ講座である「基礎英語」「続基礎英語」「英会話」の講座は、本当に自分の「基礎」となった。

就職してからは、しばらく会社の英会話クラスに顔を出していたが、それも業績悪化で閉講となり、また、TOEICの受検が「義務」のようになると、生来の変な「反抗心」が邪魔をして、すっかり「英語」から遠ざかっていた。ボキャブラリーが貧弱なのは、同じような理由で、学生時代に「丸暗記」を嫌ったからである。

「英文法」については、「冠詞」や「時制」を本当に理解しているとは到底言えないのだが、その「奥深さ」と、それゆえの「明快さ」に、今でも「憧れ」のようなものを持っている。ちなみに私は、「英会話を勉強するより先に英文法を勉強せよ」派で、また「小学生のうちは英語の授業はいらない」派である。また、もちろん、「日本語」は英語以上に大好きである。

このブログでたまにやってしまっている洋楽の翻訳というものも、著作権上、勝手に載せてはいけないのだろうが、解説書の翻訳に納得いかなかったり、「簡潔な」表現に憧れていたりしていて、始めたものである。特に60sから80sの頃にはやった曲は、詞が簡潔で分かりやすい。

しかし、簡潔に書かれているからこそ、分かりにくいことも多く、同じ「that」を「指示代名詞」と取るか「関係代名詞」と取るかで、全く意味が変わってしまうこともあるので、非常に面白い。だから、解説書によって、翻訳が異なることもあり、アーティストはどちらの意味で使ったのだろうか、と聞きたくなってくるのだ。

本当は、こんなことを書くはずではなかった。日本人アーティストの曲を自分なりに英訳してみたので、次の記事で掲載することにする。(大丈夫なのかな。。。)

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