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2010年8月 6日 (金)

生きることと、生活すること

家にあった古い文庫本、遠藤周作の『ただいま浪人』(1972初出/1974講談社文庫)を読んだ。

40年前の(根っこはバブル崩壊前まで続くが)標準的なものの考え方や家族の在り方に、当時としては、一石を投じる作品だったことだろう。

前半の展開は非常にゆっくりで退屈さを感じた。しかし、主人公の信也が大学受験に失敗して家を飛び出し、またその姉真里子が俳優との恋に夢中になっていく後半からは、当時の世相、特に学生運動に戦後最大のミステリーを絡めて展開していき俄然面白くなった。700ページを超える長編だったが、文字通りの後半だけは一日で読んでしまった。

物語の内容は大きく、信也の物語と、真里子の物語、ロバートの物語に分かれ、それぞれが並行して進んでいく。一見バラバラに思えるこれらの物語群は、それらを行き来する一部の登場人物によってまとめられるところから、現在花盛りであるライトノベルの「セカイ系」を彷彿とさせる。また、それらの結び付きの軸は「因果応報」だ。

前半の展開は、私の今までを想起させた。後半に至ると、「人生の浪人」という言葉が印象に残って、少々やりきれなくなった。

私は「生きる」ことはもとより、「生活する」ことについても出来ていない。ずっと「浪人」ということに人間としての「甘さ」を覚える。

こんなことを言っているから、いつまでも変わらないし、変えられないし、どうしたらいいのか分からないのだろう。

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コメント

遠藤周作というと、私は、コーヒーのコマーシャルで存在を知り、何冊か読んだ記憶があります。今思うに狐狸庵先生のユーモアエッセイの類だったのだと思います。
憧れの人の家に電話をして「お宅の汲み取り便所がそろそろ汲み取りをする時期なのですが、明日お伺いしてよろしいですか?」と電話をしてその反応を一人楽しむ。そんな内容のものがあったような気がします。非常に迷惑な話です。でも、妄想してドキドキしたような記憶があります。

「生きる」と「生活する」についてですが、
私の親は個人商店で、サラリーマンというものがどういうものか知りませんでした。
テレビドラマなどから、会社へ行って夕方くらいまで暇つぶしをすれば、毎月お給料がもらえる、そんなつまらないけど気楽なものという印象を持っていました。それで「生活する」糧を得られるなら、個人商店のたいへんさに比べたら、たいしたことないと思っていました。

ところがどうでしょう。けっこう日々「生きる」大変さとか、「生きる」達成感とか、そういうものもサラリーマンにもありますよ。あ、今は、ビジネスマンっていうのかな。それなりにたいへんさがあります。

私が優柔不断だからという理由もありますが、会議などで「どうすればいいのか言ってください。」とよく問い詰められます。
そんな時は、「知るか!仕事に正解なんかあるか!」と心の中で叫びます。

(声にならないところが情けない・・・。)


子供の頃に読んだ本でも、読み直してみるとその時には感じなかったことに気付いたりします。不思議です。
子供たちは、夏休みの宿題で読書感想を書かないといけないから、本屋の目立つところにいろいろ文庫が並んでいますね。少し読んでみようかな。(薄めのになると思いますが・・・。)

「違いの分かる男」シリーズですね。「シャバダーダーバダバダー」。数年前に、唐沢寿明が当時のビデオと共演するCMがありました。

私自身は、時代が変わっても「会社員」という生き物は基本的に「生活」するものだと思っているのですよ。

そんなことを言っているから「甘い」と言われるのかも知れませんが、どんなに「成果主義」を振り回しても、結局は「会社」のために働くことには変わりないからです。

「成果主義」は、給料を形(かた)にとって、社員に「生きる」ために働いているように思わせるための「詭弁」に過ぎません。だから歪んでいるのです。

会社員は基本的に「生活」の考え方は私と違いますね。意識のある時間のほとんどを会社で過ごすのだから嫌々仕事をするのはイヤです。私は仕事も自分の人生を成長させてくれるものと思っています。
※意見には個人差があります。


さて読書感想です。課題図書の定番、太宰治と芥川龍之介です。


人間失格

中学生の課題図書のひとつだったと思います。太宰にはなにかかっこ良さがあります。そう思って読みました。なぜか全集がありました。お小遣いを削ることなく本が読めたのも理由です。
でも、誰が買って誰が読んでたのだろう。
<読んだのは親父なんだろうか。イメージわかないけど。>

私は人間不信ではありません。しかし、人間をそれほど信頼できるものだとも思っていません。歳を重ねるに連れて、その限界も知るようになりました。社会でみんながうまく共同生活しているように見えるのは一種の誤魔化しだとも感じるようになりました。
その点は葉蔵の気持ちが分かる気がします。

自分はだめです。自分はばかです。自分は田舎者です。自分は生きている価値がないのです。自分は人間を失格しているのです。ただ葉蔵は、死にたいとも思っていないし、生きたいとも思っていない。人間の中にあるなにかわからないものと正面から向き合っていない。

ただ、自分がだめであることにすごいプライドを持っている。そのことには非常に感心します。

私なんか、とりあえず妥当解を出して間違えて、また妥当解を出して、答えらしいものにして、そんな自分を全然いけてないなと思うけど、もがき苦しむのも人生だと納得させています。


羅生門

下人が直面したのは「飢え死にをするべきか盗人になるべきか」という命題です。人間、理屈だけでは生きていけない。生きて行くには自分では正しくないと思っていることもしなければいけない。そしてダークサイドに落ちていきます。

ただ気になったのは老婆の着物をはぎとっても生活の糧にはならないと思うんですよね。老婆の死人の髪の毛をかつらにする行為に比べると。この下人は悪人にはなれないと思います。

太宰には学生の頃かぶれて、全部読んだのに、もう主人公の名前も忘れてしまったくらい何も覚えていません。

かぶれたのは、主人公たちが自分に似ている、という青春期特有の「自己陶酔」によるものだったと思うのです。「自己陶酔」というと少し気持ち悪いように思われるかも知れませんが、若さ故の一種の「勘違い」のことです。

粗筋を書いて下さったので、今こうして書けるのですが、私と葉蔵はコンプレックスの点で似ているように思われるのに、私の場合はそこまで徹底していないので、中途半端に悩むのだろうなあ。

ちなみに私は、太宰の面白さは代表作の「斜陽」や「人間失格」にあるのではなく、いちばん彼が落ち着いた生活を送っていた、いわゆる「中期」と言われる時期に書かれた作品群にあると思っています。特に「津軽」が傑作です。
※意見には個人差があります。

自分で言うのも何ですが、自分で言わないとわかってもらえないので許してください。私は中学生の時は今と違って非常にできる子でした。そして課題図書感想文には意味のない怒りを持っていました。

本は言われなくても読む。その上、感じたことを文章にしろと。さらに、先生のお仕着せの寸評までついてくる。その寸評のレベルの低いこと。何なんだと。アホ教師に何がわかるのかと。
課題図書は世間で評価されているほど面白い本ではありません。と本当は言いたい年頃でしたが、そこは、何度も言いますが、できる子でしたので、自分の感想と、先生に見せる差し障りのない感想とを用意しました。

ひとつ前のエントリーで、「人間の中にあるなにかわからないものと正面から向き合っていない。」と書きました。これはうそです。

太宰治の文学は、まるで自分のことが書かれているような感動がありました。人間失格と太宰治の人生とを重ねあわせる人とそうでない人がいます。私は、重ねあわせる派で、内的な自叙伝と思っています。

中期は、明るさ、健康さ、稀有の才能、力に満ちています。私は勝手に、人間失格での第二の手記、お道化、仮面の姿ではないかと思っています。

太宰治は闘っていた、苦悩していた。それを狂人の言動と見られていた。信頼していた先輩・友人たちに対する不信。愛していた妻のあやまち。

人間の中にあるなにかわからないものと正面から向き合っていない。これは明らかに間違えです。弱き美しき純粋な魂を持った人たちの代弁者であり、救いなのです。

悩むことも人生に中でよくあること。そして太宰はかっこいい。

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