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2010年8月 7日 (土)

[よいしょの気が向いた時だけ日記] TTSS3IZさん から '生きることと、生活すること' にコメントが投稿されました(6)

ちょっと長くなりましたし、話題としてもちょうどいいので、メインに格上げします。

熱心な太宰論ありがとうございます。学生時代、私の友人には太宰を読む人がいなかったので、このように議論できなかったのが残念です。もしその頃だったら、記憶も鮮明で、もっと正面から持論を展開できたかも知れません。

私も「重ね合わせる派」でした。ただ、あまり熱心なファンではなかったのか、「晩年」のような初期作品は、はっきり言って、何を言っているのか分からず、後期作品はどこかしっくりとしませんでした。その中で中期作品は、素直に楽しめたのです。

初期、中期、後期、どれが本当の太宰なのかはよく分かりません。初期は明らかに薬の影響があるのですが、だからこそ仮面を脱いだ「素」だとも言えます。後期は彼の苦悩の総決算ではあるのですが、「ポーズ」が過ぎるように思えます。中期は落ち着いて文学に取り組んでいますが、彼特有の「お道化」と言えなくもありません。

このように多彩な顔を見せてくれる太宰は、本当に「エンターテイナー」だったと思います。

恥ずかしながら、私も中学生まではできる子でした。高校の頃からだんだん「自分くらいのやつはごまんといる」ことを思い知らされ、どんどん自信を失っていき、同時に社会を斜めに見るようになっていったようです。

読書についてですが、小学生の低学年の頃は、担任の先生が読書の数を競わせ、ひとこと感想文も読む度に書かせる指導をしていました。その頃は楽しかったように思います。

ただよく覚えているのですが、ある時を境に感想文が全く書けなくなりました。小学四年の時です。

その頃から何を読んでも心に響いてこなくなりました。しかも、目に見えて読書量が減ったように思います。先生の指示だったので読んでいただけで、実のところ読書があまり好きではなかったのかも知れません。

それでも、このようにブログを書いたりできるのは、その頃の「訓練」の賜物ではあるとは思っています。しかし、読書量が圧倒的に少なかったことが災いして、「感性」が磨かれなかったことが悔やまれます。

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コメント

何かおかしな操作をしてしまったのかと焦りました。

私のお気に入りは、最晩年の連載評論「如是我聞」です。私はこれが好きなんです。
如是我聞 太宰治
http://yomi.mobi/bgate/000035__1084_15078

他人の悪口なんですがスカッとします。
いのちがけで事を行うは罪なりや。弱さ、苦悩は罪なりや。
かっこいい。私は議論できるほど太宰治を深くは知らない気がします。ただの信者、太宰治萌えです。

感想文を他人のために書く意味を私は理解できていなかった、今も理解できていませんが、読書は基本的に自分のためにだと思うんですよね。でも他人にも自分の思ったことをわかってほしいという気持ちもあったりして。でもとらえ方が違って何でわかんないかなぁなんて思ったりして。そこんところに私には疲れる、マイナスオーラが内に向かう要素があります。

読書をあまり好きではないとのことですが、ひっそりと自分のためにほくそえむものと思うと少し楽になるのではないでしょうか。

久しぶりに太宰の文庫本を手に取り、『如是我聞』を読みました。曰く、

>勉強の自負が悪い。

ごめんなさい、というしかないです。

>自身の日常生活に自惚れているやつだけが、日記みたいのを書く。

太宰がブログやツイッター全盛の現代を見たら、どう思うでしょう。(他人事ではないって)

>本を読まないということは、そのひとが孤独でないという証拠である。

自分は自身のことをずっと「孤独」のように思ってきましたが、私は本を読まないので、太宰には所詮「思い上がり」だと退けられてしまいます。

太宰の言葉には、反論はおろか、同意でさえ許さない厳しさがありました。

…と言っていること自体がダメなのでしょうね。

当時の文豪と言われる人、特にそのボス的存在である志賀直哉へ向けて攻撃しているので、読者である私たちが肩を落とすことはありません。

もがき苦しむのが人生です。太宰治自身、立派な人ではありません。太宰治は芥川賞をほしくてほしくてしかたがありませんでした。何通も選考委員に懇願の手紙を書きました。人間失格での手記の恥の多い生涯という書き出しは、このことを言っていると思ってます。

いのちがけで事を行うは罪なりや。弱さ、苦悩は罪なりや。
太宰治は弱き美しき純粋な魂を持った人たちの代弁者だと思っています。

私には、まだ読んでいないものや、忘れてしまったものが多くあります。インターネットを見ていくと、太宰治のキリスト教に対する考え方、太宰治の投げかけた根本的な課題に対して遠藤周作の諸作品はひとつの回答だった、という記述がありました。
私にはこのへんも不勉強でよくわかりません。時間があるときに太宰治、遠藤周作の作品を読んでみたいと思っています。

『如是我聞』は学生時代にゲラゲラ笑って読んでいましたが、今回20年ぶりに読んでみて、太宰の人間を鋭く観察する見識の高さに当時は全く気が付いていなかったことを思い知らされました。

太宰にかぶれるというと、一種若いときに罹る「はしか」のようなもので、彼が若者の代弁をしていると思っていましたが、それよりも、世代を超えた普遍的な批判精神を体現していると思いました。社会人になってからしばらく経ってから読む方が、逆に彼の言わんとするところがよく分かるのかも知れません。

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