カテゴリー「ニュース」の9件の記事

2009年8月11日 (火)

天変地異・・・

全国的に天候不順である。各地で大雨による甚大な被害が出ている。被害の出ている地方の方には、心よりお見舞い申し上げる。また、東北地方については、気象庁が「梅雨明け」を諦めた。ここ関東外縁は、ほとんど「南東北」であるためか、梅雨が明けたように思えない。

出番があるかないかはともかく、もう2週間以上、毎日傘を持って出勤している。なんとか降られずにすんでも、突然、雨が降りだしたりする天気がずっと続いている。つい先ほどもそうだ。

そして今日は、「すわ、東海地震か!」というような静岡県を中心とした震度6弱の地震。寝ぼけ眼で点けたテレビで、いっぺんに目が覚めた。

「地震で驚いて飛び起きた際に怪我をした人がいる」というニュースを、お昼休みの放送に聴いて、面白おかしく職場で話している人がいた。実に不謹慎極まりない。このあたりは震度3程度の地震は珍しくないが(実際、一昨日の夜に震度4の地震があった)、東海地方にはほとんど地震がないのである。だから、そちら出身の私はいまだに慣れない(慣れたくもない)。

しかしそれだけに、大地震になる周期があるようで、近く起こると言われている代表的なものが「東海地震」や「東南海地震」。地震に慣れていない上に、大地震の恐れを常に聞かされてきた人たちにとっては、飛び起きて怪我をしかねない危険は常に付きまとうのである。

それはそうと、「平成」になってから毎年のように大きな地震がある。日本列島は地震の活動期に入っていると聞いたことがある。それに、「温暖化」の影響と思われるこの天候不順。「起こりえないことを心配する」という意味の「杞憂」という言葉が、現実味を帯びてきた。

2008年10月22日 (水)

声に出して読みたい「漢字」・・・

今日は幾分気分が良い。先ほど、昨日の記事「今日もだめ・・・」の「嫌いなもの」に追加して、これを書いている。今まで、はっきりと「嫌い!」と言ったことがあまりないので、ある意味、心のバランスを取るためにも良いかもしれぬ。今後気がついたら、適宜追加していくこととしよう。

ところで、「漢字」である。今、文化庁の「文化審議会国語分科会漢字小委員会」という長たらしい名前のところで、現在の「常用漢字表」を見直している最中だという。

今はもうその頃に得た知識がダメになってしまったが、私は小中学生の頃は「漢字」に非常に興味があった。漢字の成り立ちや、その用法の本を読んだり、辞書をめくったりしているだけで、わくわくしたものだった。

現在の「常用漢字表」は1981年(昭和56年)に公布されたもので、私はちょうど中学に上がったばかりの頃だ(年齢がばれる)。「人名用漢字表」の方はこれまで度々改訂されてきたが、社会生活の漢字使用のための「目安」である漢字表の方は、実に25年以上そのままだった、ということになる。

その間には、「日本語ワープロ」の普及と衰退、それに代わる「パソコン」の普及と現在のインターネット全盛時代、といったように、「漢字」をめぐる環境は劇的に変わった。パソコンの性能の向上で、そこに搭載される「辞書」の容量はほぼ無尽蔵となり、手書きの頃には「仮名書き」していたような言葉でも、簡単に漢字に変換できるようになった。その結果、「書けないけれど読める」ということの反面、「書けたけれど書けなくなった」という「弊害」も出てくることに。

「漢字表の改訂」というと「漢字の追加」ばかりが話題に上りがちだが、今日の新聞に、漢字の追加とともに、いくつかの「音訓」が追加される、という興味深い記事があった。

「関わる(かか・わる)」、「速まる(はや・まる)」などは、今まで使えなかったこと自体が不思議だ。「臭い(にお・い)」も「匂い(にお・い)」とともに追加されることになった。今まで「人込み」と書かざるを得なかったのを「人混み」とも書ける。ただ、これまで以上に、「異字同音」「異字同訓」に気をつける必要がある。

「花の臭い」はやはりおかしいし、「期待に答える」は間違い。この場合の「こたえる」は「応える」と書くことができる。でも、「堪える」は認められなかったようだ(今まで通り「た・える」のみ)

私自身は、ある程度の「漢字制限」は必要だと思っている。しかし、このように、新たな「音訓」が認められることで、繊細な日本語の違いを書き分けられるようになることは、非常に嬉しい。私(これも「わたし」の読みが正式に認められるそうだ)の「日本語」は決して「正しい」ものでも「声に出して読みたい」ものでもないが、少しでもその「繊細さ」に近づけるようになりたいと思っている。

2008年10月13日 (月)

「喜び」と「落胆」と・・・

3連休の最終日。休みというのは始ると終わるのが早いものである。結局、とくに用事があるわけでもないのに、このブログすら更新していなかった。

今更こんな話題でもないと思うが、先週は日本は喜びと落胆の入り混じる1週間だった。もちろん、「喜び」の方は一挙に4人もの「日本人」がノーベル賞を受賞したこと、「落胆」の方は株の大暴落である。

ノーベル賞の方は、本当に喜ばしい限りだ。文系人間である私には、受賞された方々の授賞理由の内容は全く分からない。でも、「物理学」や「化学」というものを究極まで突き詰めていくと、「美しい」ものにたどり着くのだなあ、と感じている。また、その方々が授賞理由の「発見」をしてから、今回受賞するまで30年以上の年月が経っている。こんなに長い間、認められるまでくさらずに、ただ黙々と研究に打ち込まれた姿勢に、月並みな表現ながら、本当に頭が下がる。「人生は短く、芸術は長し」と言うが、「学術は長し」と言うべきであろう。

それにしても、これをもってすぐに「子供の理科離れに歯止めがかかると良い」という議論になるのは、非常に短絡的で、それこそ物事の本質を完全に見誤っている。4人の「日本人」とは言うが、南部氏は既に「アメリカ人」であり、下村氏もアメリカ在住で、子供さん(この言い方はちょっとまずいが)は英語しか喋れないという。

「産学共同」が叫ばれて久しいが、「実学重視」ということから、弊害が出ている。こういった「基礎科学」の分野は、「成果」が現れにくい上に、たとえ「成果」が出ても、それを「応用」できる分野がすぐにわからないため、研究への助成がほとんどないという。これは、「文系」の分野でも顕著だ。私学は「学校経営」が根底にあるため、仕方のないところもあるのかもしれない。だから、そういう分野にこそ、「国立大学」の存在意義があるはずだった(小林・益川両氏は名大出身)。しかし、「こいずむ」(小泉+izm)の「規制緩和」により、「国立大学」も「国立大学法人」となってしまい、「経営第一主義」になりつつある。

南部氏と下村氏は、「研究費」がろくに出ない「基礎科学」の分野の優秀な頭脳が、どんどん外国へ流出してしまっていることの、「日本」にとっては非常に「情けない」例なのである。何事も「基礎」を疎かにしては、その上にどんなに積み上げても「砂上の楼閣」に過ぎず、いずれはもろく崩れてしまう。国は、本当はそこに目を向けるべきなのだ。今回受賞の4氏はすべて60歳以上、そのうちお二人は80歳代だ。おそらく、日本からは今後ノーベル賞受賞者は出ない(出ても一人か二人、その後は数十年後)。ノーベル財団は、日本のそういった現状を見透かして今回大放出した、と考えられなくはないだろうか。

「落胆」の方は、もうどうしようもこうしようもない。何もかも、アメリカの大バカのせいである。ヘッジファンドの収益を支えているのは、「ブラック・ショールズ式」と言われる方程式だそうで、その理論を確立したショールズ氏は、「ノーベル経済学賞」を受賞している。その方程式を使って、今回の「サブプライム」を含む「デリバティブ」が多数生まれ、取引されてきた。

まあ、本人の設立した投資会社は10年前に多額の損失を出して、その時も「危機的状況」は起きているのだが、今回は世界を巻き込む事態になっている。先の話ではないが、いかに「実学」だけに頼ると脆いか、の良い例のような気がしている。賞の「剥奪」も考えてはいかが?

2008年10月 7日 (火)

なんだかなあ・・・4回目・・・

前回、「祝!」なんて言っておきながら、更新をさぼっていた。ちょっと「動画中毒」になりかけているので、用心、用心。

ローゼン政権が発足したばかりだが、もともと「選挙管理内閣」のような位置づけと捉えられているので、「いつ解散になるか」が非常に大きな関心事になっている。民主党などは力が入りすぎてしまっていて浮足立って見えるのが、逆に滑稽だったりする。

ただ、非常にタイミングの悪いことに、アメリカ発の「世界同時株大暴落」が起きており、「不況風」が「嵐」になりかけている。ローゼン首相自身が「今は選挙より景気対策だ」と言っているように、自民党にとってみれば「時間稼ぎ」の「良い」材料となっているようで、どこまでも政治や経済は、一般庶民の都合の良いようには出来ていないものだな、と溜息をつきたくなる。

「五日国交相」の出馬断念で、そのまんま宮崎県知事は国政に打って出ようとしたが、結局、立候補を断念したようだ(ただ、未練たらたら)。最近の彼は「宮崎のセールスマン」どころか「タレント」そのものだったので、県民の率直な「出馬反対」の意思が、少しは「苦い薬」になれば良いが。自分自身が「どげんとせんといかん」と反省すべき時が来ている。(人のことは言えないが)

それにしても、アメリカの体たらくである。日本も20数年前に同じようなことをして、世界に迷惑をかけた「前科者」なのではあるが、日本(や世界)には、自分の「基準」を押し付けて混乱させるだけさせておいて、自分自身は何も学ばなかったんだね。「ワールドコム」や「エンロン」をきっかけに生まれたはずの「SOX法」も、何の役にも立たなかった。

2008年9月28日 (日)

なんだかなあ・・・みたび・・・

本当はほかに書きたいこともあったのだが、あまりに「なんだかなあ」なので、触れざるを得なくなってしまった。あまりに強い「主義主張」は、自分の考え方の浅はかさと、絶対的な裏付けや経験の薄さから、このブログでは極力しないようにしているのだが、今回のことはあまりに「分かりやすい」ので、短く書こうと思う。

昨夜あたりから騒がれ始め、今朝の新聞にはまだ憶測であるはずなのに一面トップに載り(これも変だとは思う)、果たして先ほど発表された、ローゼン新内閣の国交相辞任のことである。

出来レースだった自民党総裁選に勝利し、ローゼン内閣は今週発足したばかりであるが、その首相就任会見兼新閣僚名簿発表を、私はたまたま見ていた。慣例では、閣僚名簿は新官房長官が発表するのであるが、今回は首相自ら行った。また、一人一人の名前を読み上げる合間に、各々の新大臣のミッションや彼らに期待することなどを差し挟んでいた。私は別にローゼン新首相や自民党の支持者であるわけではないが、このスタイルに、不覚にも結構感動を覚えていたのである。そして、直後の会見を見て、政策にあやふやな点はあるものの、割りととしっかりとした受け答えに「結構やるなあ(やるのではないか)」と思ったりしてしまったのである。・・・この点、私もダメダメであるのだが。

しかし一週間も経たない内に、新国土交通大臣は、「前」国土交通大臣になってしまった。彼の主義主張の真偽のほどは、「日本は単一民族国家」という明らかな間違い以外は分からないし、ここでは触れない。ただ、決定的に「自己矛盾」を起こしているのは、「戦後民主主義教育が悪」で、「利己主義」に結びついているというような主張だ。

まあマスコミも、テクストを無視し、別々なところでしたいろいろな発言をコラージュして、都合の良いような解釈を行っている面は否めないし、我々もその報道をそのまま受け取ってしまいがちである。また、極端な「利己主義」が、特に「社会道徳」(あのね、そもそもこれは学校で教えるモノではないんだよ)や、最近の「事故米事件」のような「儲けられれば何をしても良い主義」といった面で軋轢を生んでいることは無いとは言えない。

ただ、その彼が憎むべき「戦後民主主義教育」のいちばんの「享受者」は、彼の世代自身であったことを、彼自身が忘れてしまっている。彼は今65歳で、昭和18(1943)年の生まれ。彼が小学校に入学した時代は、既に現憲法が公布され、戦前教育の反省の上に立った「戦後民主主義教育」が始まったばかりの頃である。

また、彼は1966(昭和41)年に東大を卒業したそうで、「東大紛争」(68年)には遭遇していないものの、その当時のキャンパスは、「学生自治」の旗の下、かなり自由闊達な雰囲気だったはずである。そうでなくても、当時「大学」に通えただけでも相当恵まれていたと言うしかない。

戦争前夜・戦中は表現・結社などの「自由」がことごとく制限されていて、多分、今回のような「教育の悪」を説くようなことは望むべくもなかったはず。「戦後民主主義教育」の享受者である彼自身が、誰が傷つくかも分からないのに、自分自身の主義主張のためだけに「利己主義」的な放言ができる。良い時代に生まれましたね、「前」大臣。

【おまけ】

小泉元首相が引退するというニュースもあった。「自民党をぶっ壊す」「古い政治をぶっ壊す」みたいなことを言っておきながら、ちゃっかり息子を後継者にするという「古い政治」をしている。結局あなたも「利己主義」で、「日本」をぶっ壊しただけでしたね。

2008年9月 2日 (火)

なんだかなあ・・・ふたたび・・・

9月に入ってしまった。結局、8月はたった1回の更新で終わってしまった。私自身が「なんだかなあ」ですが、このところまた「なんだかなあ」なことが多いので、前回の続きをば。

なんだかなあその1

オリンピック。彼の国のいろいろな「虚飾」が、隠そうとすればするほど露呈した大会だったようだ。開会式の口パクや花火のCGは可愛いもの。異様な応援、認められなかったデモなど、怖いものを感じる。それより何より、オリンピック特需による「好景気」も「ウソ」なのかもしれぬ。

ただ、外国のメディアが入ったことにより、隠しきれなくなっているのも事実で、意外とこういうところから「ほころび」始めるのかもしれない。今の「好景気」がはじけたとき、今の体制の「終わりが始まる」ように思う。

なんだかなあその2

そのオリンピックでの日本選手団のていたらく。特に野球は最悪で、私の義弟も言っていたが、ああいう大会にはプロ選手を出すこと自体、間違っている。商業主義がはびこるようになって、プロ選手が堂々と出場できるようになったことの弊害の一つではあるが、本当に強いチームを作るのであれば、社会人や学生を集めて、徹底的に練習させて出場させた方が、どんなにか良かった。日本の野球のレベルは、アマでもかなり高いはずである。また、いろんなところでささやかれていることではあるが、首脳陣が「仲良し3人組」であったことが、そもそもの元凶である。ほとんどコーチの経験のない(どこからもお呼びのかからない)田○にコーチを任せること自体、何を考えているのか。

加えて、一向に世代交代の進まない選手団。連続出場は確かにすごいことではあるが、競技全体の底上げとしては、果たしてそれで良いのか。古い世代がずっととどまっていれば、若い世代はやる気を失ってしまうだろう。4年のインターバルは大きい。連続出場の天井は作るべきだと思う。

なんだかなあその3

大相撲の麻薬疑惑。一人の逮捕にとどまらず、とうとう今日、二人に陽性反応が出た。閉鎖的な世界であるが故に、まだまだ見つかっていない力士がいるはずだ。

なんだかなあその4

何と言っても、昨日の福田首相の突然の辞意表明。内閣改造をして、臨時国会の開会時期にもめているうちに、投げ出してしまった。何のための内閣改造だったのか。安倍前首相に続いて、2代続けての「政権放り出し」。会見では、野党との政策協議不調を理由にしていたようだが、野党だけを悪者にする言い分は、子どものケンカと同じだ(まあ、野党のやり方もほめられたものではないが)。ある野党党首が「最後まで他人事内閣だった」と言っていたが、小泉政権の時の官房長官を務めていたときの、良い意味での「ひょうひょうとした」振る舞いが、悪い方向に行ってしまったのが非常に残念だった。

次の総裁は、「ローゼン太郎」か。どのみち近い内に総選挙があるだろう。

・・・ああ、本当に「なんだかなあ」なつぶやきになってしまった。

2008年7月27日 (日)

「劇場」としているもの・・・

7月に入って「祝!1ヶ月!」なんて言っていたくせに、その記事を再編集したこと以外は、ちっとも更新しなかった。やっぱり自分には、何かを始めるのは良いが(その代わり決心には時間がかかる)、いざ始めてしまうと、少しの間は「お祭り」状態になって張り切るものの、始めたことだけで満足してしまうという悪い癖がある。まあ、そんなに気張っても意味があるわけでもないので、書きたいことがたまったら、またゆっくり書き始めるというペースで続けていこうと思う。

そして、ここを留守にしている間に、東北地方には再び地震が襲い、悲惨な事件が相次いで起こった。ひとつは就寝中の父親を娘が刺殺した事件、もうひとつは、またしても無差別殺傷事件だ。「無差別殺傷事件」に至っては、「街をおちおち歩けなくなった」なんて言っている間に、また次の事件が起こるということの繰り返しで、今年に入ってからすでに8件も起こっているそうだ。被害に遭われた方々、そのご家族・ご遺族、ご友人、関係者の方々には本当に申し訳ない言い方になってしまうが、「そうだ」と言わなければならないくらい、あっという間に過ぎ去ってしまっている。

それにしても、今回の八王子での事件の犯人である「菅野某」の言い草は何だ。「仕事のことを親に相談しても取り合ってもらえなかった」から「むしゃくしゃ」して、「最近無差別殺傷事件があちこちでおきている」から、「親を困らせよう」と事件を起こした。「誰でも良かった」。私自身、それほど成熟した人間ではないけれど、これが33歳の男の言うことか。私の世代が中学・高校の頃に問題になった「校内暴力」や「つっぱり」などという、当時の(いわゆる)”不良(非行)少年”の論理となんら変わりなく、そんなことで無関係の人を殺せるのか、と愕然とする。まだ、その頃の”不良少年”の場合は、その「第二次反抗期」の有り余るエネルギーの「ぶつけどころ」を一生懸命探して、苦しみもがいていたように思える。

秋葉原事件や土浦事件、ホームから人を突き落とした岡山事件、そして今回の八王子事件、それぞれに共通しているのが、「親を困らせたかった」というような動機。親を殺してしまった川口事件も、事件の種類は違うが、性質としては同じようなものだと思う。

今回の事件で犯人と親の「言い分」が食い違っていることからでも分かるように、「親子関係の希薄さ」、そういうこともあるだろう。でも私には犯人の家庭の事情は分からないし、この部分の議論は”教育評論家”とかいう人たちに任せる。「ネット社会」や「格差社会」、それぞれを問題とする議論も良く語られるところで、秋葉原事件の時にもここに書いたが、何でもかんでも「自己責任」に押し付ける「政治」や「社会」のあり方は、もっと考え直したほうが良い。ただ、こうした事件が「劇場型犯罪」と言われるようになったこと自体に、もっと大きな問題があるのではないだろうか。

「劇場型犯罪」という言葉は元々、現在推移している未解決事件に対して言う言葉だったそうだが、犯人も逮捕されて、その犯罪の捜査過程が大々的に報道されるような事件についても、こう呼ぶようになったそうだ。非常に不謹慎な言い方になるので大変申し訳ないのだが、ここにおいて「主演俳優」は「犯人」であり、「観客」は「一般人」である。しかし、それが「演劇」として成り立つためには「場」が必要である。それを提供しているのは誰(何)か。無論、「マスコミ」だ。

秋葉原事件の場合は、その「劇場」の前に「ネット」があった。そこで「主演」を演じようとした犯人は、掲示板に誰からも反応がないことに勝手な「孤独感」を募らせ「自棄」を起こした。無理やり「主演」になるために、今度は「マスコミ」を利用しようと、あんな暴挙に出た。その裏にあるものは、「親への復讐」。他の事件でも同様である。

奇しくも犯人自身が供述しているとおり、自分の犯罪が報道されることにより、親の「面目をつぶす」ことができるのである。秋葉原事件の時にもここに書いたが、最近の事件では、マスコミが犯人の実家に押しかけ、その親に会見を求めることが多くなった。この会見において、自分が引き起こした事件を知った親に泣き崩れさせたい、と思っているのである。しかし、本当に「泣き崩れさせたい」と思っているのは、犯人なのだろうか?

それを見たがっている「一般の人々」だという議論もあるだろう。しかし、「主演」と「観客」だけでは「演劇」は成立しない。私は、「劇場」を提供している「マスコミ」の責任は大きいと思う。そして、その「劇場」を大きくすればするほど(報道すればするほど)、「共演者」を増やせば増やすほど(犯人の家族、場合によっては被害者のご家族・関係者を呼び出す)、犯人(予備軍を含めて)は、「大俳優」を気取りやすくなる。「観客」も余計な関心を抱いてしまう(私自身の反省も含めて)。

そして、そういう報道が繰り返されることで、被害者や被害者のご家族の心の傷は大きくなる。そうでなくても、その犯人の裁判の中で、事実や動機が分かってくる(または、分からないままにされる)ことで、必要以上に増幅されることが多い。いわゆる「二次被害」だ。だから、「被害者の人権」のためにも、こうした事件については、とにかく事実だけを伝えるという、必要最小限の報道とすべきだ。そうすれば、「劇場」が小さくなったことで、「俳優予備軍」も、変な「主演気取り」を起こしたりしなくなると思うのだ。

もちろん、これだけで、このような凶悪な事件がなくなるとは思わない。しかし、「演劇」とさせない努力は、こういうところから始まるのだと思うのだ。

2008年6月16日 (月)

秋葉原にて・・・

10日の書き込みはやはりひどかった。内容も途中からおかしくなっている。またブログの体裁も、改行は段落を付けるとき以外はしない方が良いようだ。

もう一度、自分の整理の意味で、あの事件について触れる。以下は、自分の職場で、事件についてやりとりしたものの転載である。10日の内容とかぶるところはあるが、ご容赦頂きたい。

私の職場では毎朝、パソコンを立ち上げると、メッセージが配信されて表示される。だいたいは、「業務改革」とか称する取り組みの「プロパガンダ」なのだが、今年に入ってから、健康に関する記事も掲載されるようになった。そして、11日の朝に配信されたのが、「うつになりやすい思考の10パターン」というものであった。記事自体に引用があるので、再引用となってしまうのだが、その10パターンというのが、一つ一つの説明は省くが以下の通りである。

①全か無か思考 ②一般化のしすぎ ③心のフィルター ④マイナス思考 ⑤結論の飛躍 ⑥拡大解釈と過小評価 ⑦感情的決めつけ ⑧すべき思考 ⑨レッテル貼り ⑩個人化

私も長い間心の安定をごまかしながら過ごしてきているが、ほとんど当てはまってしまう。そして、加藤某という犯人のことを考えると、そんな思考パターンが「先鋭化」したもののように思えてならない。

初めに断っておくが、こういう思考パターンの人が事件を起こす、と言っているわけではない。世の中には、こういう話をすると、すぐに過剰反応を起こすことがあるが、それこそ「一般化のしすぎ」であり、社会全体が「うつ」状態なのではないかと思ってしまう(ほら、私も一般化のしすぎである)。

話を戻そう。私も大いに含めて、世の中の風潮として、とにかく何かに原因・責任を求めて、なすりつけようとしすぎているように感じる。もちろん、犯人の置かれた”みじめな”境遇に、「政治」や「社会」が全く関わっていないとは言えない。全てを「自己責任」にすり替えてしまう「政治」も、どこか間違っているとは思う。

ただ、すぐに「政治が」「社会が」・・・全部が悪いからこうなんだ、と直結させるような考え方が、跋扈していることは否めない。私自身、あの事件の日の夜、母親に電話してこの話をしたときが、そうだった。

しかし、その不満の矛先は、そんな抽象的で大きなものには簡単に届くわけもなく、無力感から自然とものを言わない、声の上げられない弱い方へ向けられていく怖さを秘めているのではないだろうか。「いじめ」とはそういうものではないだろうか。(決めつけが始まった・・・)

マスコミも同じ。こういう凶悪事件が起こると、その親を引きずり出すようになってきた。犯人に罵声を浴びせかけることは物理的にも不可能だし、もしそれができたとしても、あそこまで「自己完結」してしまった彼にはまず届くとは思えない。そこで手っ取り早く、「犯人の犯人」を見つけ出して、謝罪させようとする。

確かに犯人の人格形成の由来のほとんどを成すものは、彼の親のしつけや教育によるものだ。しかし、彼はもう25歳の「成人」であり、社会的には「責任」のあるものとして、法的にも扱われている。だから、本当は親は関係がないはずだ(言い方次第で問題が起きる言い方だな)。マスコミがこういう「犯人探し」を率先してやっている以上、いくら「いじめ撲滅キャンペーン」なんてやっても、なくならないと思う。

まあ、今の「成人」が本当に「成人」しているか、と言えば、私もそうではないので、あまり大きな口はたたけないけれど。でも、それこそ新聞の受け売りなのだが、極端な「自己否定」は「自己愛」の裏返しであり、その肥大化が社会的に著しいことは確かで、それが他人や社会の全否定になって、このような無差別な凶悪事件の頻発に繋がっているようではある。特効薬はない。

・・・私も「決めつけ」と「一般化」がひどいなあ。

既に長いが、もう少し。14日の土曜日に、秋葉原に行った。行くつもりではあったが、かなり行こうか行くまいか逡巡した。やはり、どこか「怖かった」のである。ただ、上手く説明が出来ないが、同じ事件が起こるのではないか、という「怖さ」とは違うものだった。

いつもより人出がかなり少ないように感じた。私がよく行くアニメショップも、いつもならレジに並ぶ列と輻輳して、まともに商品を選ぶことができないのに、ガラガラと言って良いほど空いていた。

事件現場に設けられた献花台は花や供物があふれていた。「事件を風化させまじ」というメッセージもあった。もちろん、事件に居合わせた方、被害に遭われた方の友人・親族の方もいらっしゃったと思うが、ほとんどが「アキバの住人」というつながりだけで、純粋に冥福を祈りたい人たちの行為だと思う。「アキバの住人」はともすると、他人とつながりを求めず、自分の世界だけに引きこもろうとする人のように捉えられがちであるが、わりあいとお互いに緩い「仲間意識」のようなものがあるように思う。

私も「アキバの住人」の末端にいる者として、手を合わせ、黙祷を捧げさせて頂いた。亡くなった方々の無念さに思いを馳せるにつけ、怒りと悔しさで涙が出そうになった。

日曜日の歩行者天国が当分の間中止されるという。廃止すべきという意見もあって、商店主の方々の間でも意見が分かれているそうだ。私自身は中止に反対だ。事件は「歩行者天国」だったから起きたわけではない。

週末の秋葉原の中央通りなどの歩道は人があふれ、身動きがとれない状態になる。もし、今回の事件のようなことが起きたことを考えると、逃げ場が無く、却って危険だ。また、交通量も多いので、パニックになった群衆が車道に飛び出すと、車にはねられてしまう。

それに、事件が「銀座」や「新宿」などのもっと著名で象徴的な歩行者天国で起こったら中止するのだろうか。そこには、一部で騒がれている「パフォーマンス」への嫌悪感があるように思う。

私自身は、そのパフォーマンスを見たことはほとんどないので、具体的にどういうことが行われているのかよくは知らない。行き過ぎたものはあるようだが、「自己表現」の場として機能していたことも確かだ。今回の不幸な事件をきっかけに、芽生えた「アキバの仲間意識」が、解決してくれることを願う。そういう街だと信じている。

・・・やっぱり結論が飛躍しているなあ。

2008年6月10日 (火)

怒りとは・・・

この話題について、昨日書こうと思ったが、果たせなかった。パソコンの状態が不安定で、

ネットに接続するのもやっとだったからだ。しかし、昨日書かなくて良かったと今は思う。

怒りにまかせて殴り書くだけだったと思う。これは、神様が「今は書くな」と止めてくれたからに

違いない。

本題に入ろう。「怒り」とは、昨日発生した、例の「秋葉原通り魔事件」に対してである。

まず、お亡くなりになった方々のご冥福と、怪我をされた方々の早期のご快復を心から

お祈り申し上げる。

私もあの場所はよく訪れ、今週末にも行く予定であるだけに、非常に衝撃を受けた。

何の落ち度もない人たちが車にはねられた上に刺殺されるという、まさに「この世の地獄」。

犯人の「何もかもいやになった。誰でもよかった」という「動機」。本当に怒りがこみ上げてくる。

最近、このような事件が非常に多い。以前新聞に載った専門家の分析によれば、「間接自殺」と

言うそうだ。自分で死ぬ(自殺する)のが怖いので、人の命を奪うことで、自分が死んだ気になり、

また最終的には死刑になって、人に「殺してもらいたい」と願うことらしい。非常に迷惑な話だが、

本人の中で完結してしまっているので、たちが悪い。他人がとやかく説いたとしても、まず受け付けない

だろう。

しかし、犯人のこうした「訳の分からない怒り」は一体どこから来るのだろう。初めに断っておくが、

決して犯人に同情や共感を覚えているわけではない。人生に絶望したとしても死ぬのが怖いのなら、

失踪してしまえばいい。他人を巻き込むな、と声を大にして言いたい。

ただ、自分も常々「怒り」という感情をどう「発露」したら良いのか分からなくて、悩んでいる。

なぜこうなってしまったのか分からないが、「KY」(大嫌いな言葉)に象徴される、過剰に

「均一化」「均質化」を求められる世の中では、「怒り」という感情は、「負」の感情ということに

なってしまう。

人間だって「動物」である。「攻撃性」は誰にだってある。そうでなければ、「欲」は生まれないし、

「欲」の無い人生は、まさに「生ける屍」でしかない。それを端的に感情に表したものが「怒り」だ

と思うが、それを発露したり昇華できる機会を奪われ、みんなそれを内に秘めたまま、悶々として

生活をしている。そして突然「キレる」。「喜怒哀楽」を自由に発露できない社会は、非常に不幸だと

思う。

既に、論理が破綻してしまっているのを承知で、もうひとつの「怒り」について。TVニュースなどによれば、

犯人は「おとなしくて無口で、人付き合いが苦手で、キレると怖い」そうだ。この紋切り型の「犯人像」は

一体いつから生まれたものだろう。

まず、「キレると怖い」というのは、当たり前である。「キレる」ほど怒りを表現しているのに、怖くない人は

いない(穏やかな顔をしていたとしても目が笑っていなければ、もっと怖い)。ただ、それを抜きにしたと

しても、こうした「人物像」に当てはまらない、という人は、今の世の中少ないのではないか。

先ほど述べたように、「均一化」「均質化」を強いられる世の中では、「喜怒哀楽」を表現できる機会が

少ない。余計な摩擦を避けるために、どうしたって、「無口でおとなしく」なってしまうのではないか。

そうすると世の中の人がみんな、「犯罪予備軍」ということになってしまう。

そういうTVの紋切り型の表現は、すぐに伝播して人々の潜在意識に残り、どんな事件であっても

インタビューを受けた側はこういう表現しかしなくなってしまう。それが繰り返されると、もうそういう

「犯人像」しか描けなくなってしまう。TVなどのマスメディアの怖いところである。こうした「情報」は

すでに「情報」ではなく、報道する価値がない。

それと、「秋葉原」に代表される「サブカルチャー」に対する紋切り型の表現。確かに眉をひそめる

行動があるのは認めるし、私も「おたく」の部類に入るので擁護しがちであることも認める。ただ、

今朝の某TV局の「コメンテーター」とかいう人種のコメントには、非常に腹が立った。

正確には覚えていないが、「秋葉原は、人々が普段の悶々とした生活を一時忘れるために、刹那的な

楽しみを求める街。それを同じように悶々とした生活を送っている犯人が襲ったというのは、象徴的だ。」

というようなこと。犯人と被害に遭われた方を同一視している。こんなに失礼千万な話はない。

世の「ストレス発散」と言われているものは、おしなべて「刹那的」なものではないのか。カラオケ、酒、

ブランド品の買いあさりに始まり、パチンコ、競馬などの公営ギャンブルなどなど。基本的には本人の

中で完結すれば問題がないはずで、それは「サブカルチャー」についても同じはずである。借金する

危険性が少ないだけ、ギャンブル狂いよりは「健全」だと思うのだが。

私が考える「ストレス発散」で絶対に行ってはいけないと思うのは、某ねずみが支配する遊園地である。

そこは「現実世界を一時忘れるため」、徹底的に現実を排除した、マニュアル化された「セカイ」である。

毎週のように来るという家族というものがあるらしいが、子どもの本当の情操教育には逆効果だ。

私にとっては、こちらの方が「不健全」極まりないと思う。

自分も「評論家」になってしまっているし、うだうだになってしまったが、最後に。「怒り」がわいて

くるのを誰のせいにするのでもなく、自分の中で昇華できる対象を見つけた人が、本当の「大人」

なのかもしれない。それを見つけられず、剣の矛先を、全く関係のない人や、より弱い立場に向けざるを

得なくなってしまう世の中は本当に不幸である。ただ、人を絶対に殺すな!

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